「ヒカリノカケラ」
泣きそうな夕暮れを何度か見たことがある。
空が両目いっぱいに涙をためているような、そんな気が確かにしたのだけれど、否、思い返すと泣きそうだったのは自分だったのではないだろうか、と、彼は考えていた。
佐竹一郎は両手いっぱいの花を手に、帰路についていた。何かめでたいことがあったわけではない。強いていうならば、彼のアルバイト先であるレストランで結婚式の二次会というめでたいことがあった。これはそのおこぼれと言ってもいいし、花の処分に困り果てた店長のおしつけと言っても過言ではない。
佐竹一郎は「ノーと言えない日本人」の典型であった。店長が「持って帰ってはくれないか」と頼めば、「はい」と脊髄で返事をしていた。生まれつきの温和な性格と、それを具現化したような顔の持ち主は人生において度々損をしてきたけれど、当人はそれらを意に返さない強さを持っていた。
もちろんそれを「強さ」だとは微塵にも思ってもいないようだったが、とにかく佐竹一郎はそういう人物だ。
話を元に戻そう。
彼はアルバイト先から、線路沿いを5分歩いたところにある自宅へと歩を進めていた。両手いっぱいに花を持った温和な少年を、すれ違いざまに人々は好奇の目で見送った。
そのうちの一人、春日順子は彼に向って心の中で誰知らぬ悪態をついた。
『学生はいつだって幸せそうで、結構。呑気な顔をしていやがる』
彼女は高校の国語教師であった。部活動の副顧問として駆り出された女子バレー部の試合を観戦し、生徒たちを解散させた後、帰路に着こうとしていたところであった。彼女は自分の仕事にうんざりしていた。
毎日毎日通う職場は「高校生が中心」の場所である。彼らを蝶よ花よと育て、学ばせ、夢を与え希望を与え、余計な心配をしてくる保護者をなだめすかせ、突飛な悩み事でとんでもない決断に至る生徒諸君と語り明かす。そういう職場である。彼女は、自分が主役でないこの職場に嫌気がさしていた。
アパレルに進んだ友人や、出版社に進んだ友人たちが、果たして自分と同じ悩みを持つことなどあるだろうか、と、彼女は大きくため息をついた。
そこへ前からやってきたのが佐竹一郎である。「呑気な学生」を具現化した平和な顔が、前方から何を思ったか両手いっぱいの花を抱えて歩いてきたのだから、その時の彼女の気持ちを、我々は幾分推し量るべきであろう。一寸(ちょっと)悪い気が働いて、携帯をいじるふりをしながら道を譲ることなくまっすぐに進んでいった。
佐竹一郎は天然である。何かに集中すると他のことに無頓着になる、とも表現できる。その時彼は完全に前方不注意であった。なぜなら両手いっぱいの花につられて近づいてくる虫たちを目で追っていたからである。狭い路地でお互いのそれは災難としか言いようがない。
結果、漫画みたいなことが起こった。
「本当にすみませんでした。」
貰った花々の破片を回収し、不運にももげた春日順子のヒールを、たまたま持っていたアロンアルファで接着しながら、佐竹一郎は謝罪した。
「一応、これは応急処置ですから、今度靴屋さんにでも持って行って修理してもらってください。」
透明な液体のみで固定されたピンヒールは持ち主に心許ない印象を与えた。道路脇の小さな公園のベンチに二人は腰を下ろしてみたものの、一人の左足は裸足である。 真っ先に謝罪した佐竹一郎は真黒のミュールを固定しながら、自分の不注意を反省していた。期待を裏切らない純朴さは、彼の長所でもあり、欠点でもある。
一方、靴を履いた右足と、肌色の左足を眺めながら、何故自分がこんな目に遭っているのだと、春日順子は発端となった自分のいたずら心を棚に上げていた。不思議なもので、「靴を脱ぐ」という行為は、人の心を開放的にした。接着剤が乾くまでの時間を持て余した彼女は、横にいる呑気な青年に声をかけることにする。
「学生?」
「はい、高3です。」
若いだろうとは思っていたが、高校生であった。
「どこの高校?」
近くの公立高校の名前が出ると、彼女は少しほっとした。まさか自分の学校の生徒ではという一抹の不安は解消された。自分が教師だということは何となく言わないことにする。
「高3だったら、受験じゃない?」
「そうですね、本当はバイトとかしている場合じゃないんでしょうけど」
ふわふわ笑いながら話す彼は元来の顔も合わさって至極呑気に見えた。
彼女は余計に苛立った。
「将来、何になりたいの」
一定の年齢を過ぎて、将来への選択をいくつかこなすと、彼ら(大人)は年下の将来を心配したがるようになる。彼女もその一人であった。裸足の左足を投げ出しながら、人生を知った風な顔で問いかけた。
空のオレンジは少しずつ光を失っていき、やがて世界は薄青くなった。
「接客業をやりたいなって思ってます。」
人が好きなんです、と呑気に笑う彼は何故だかとてもきらきらしていた。
彼女が当の昔に残してきたその光は、彼にとっての現実としてそこにあった。
接客業を、彼女は職種として馬鹿にしている節があった。決して口外せず、店員に無礼な態度をとることも一切なかったが、この職種についた者への憐れみを持っていた。“何にもなれなかった者の吹き溜まり”心のずっと奥で彼女は嘲っていた。
ところが、目の前のこの青年は「それ」になりたいという。ぼんやりとした光を纏いながら。その光は、強く差し込むものではないが、少しずつ深く沁みこむような柔らかい光だ。誰かを救うことの出来る光。
「教師とか、興味ないの?」
無意識のうちに口をついてでたその言葉に、彼女自身が驚いていた。
「教師ですか?」
「人、好きなんでしょう?」
それまで佐竹一郎は“教師”という職業を身近に感じていなかった。自分が誰かに物を教える図が想像できなかったのである。ところが、目の前の女性に言われて想像してみると、何だかそれも楽しそうな気がしてきた。 彼は学校が嫌いではなかった。むしろ好きであった。一生卒業しなくてすむ、という考えが過(よぎ)ると、なんだかネバーランドに招待されたようなそんな気分になってきた。
「教師ってどうやってなるんですかね」
彼が興味を持ったことに、春日順子は大きな喜びを感じていた。彼女自身は「それ」が「喜び」であることにまだ気づいていなかったが、温かい光が自分の内からじわじわと溢れるような感覚はあった。
「まずは、大学にいく。で、教職課程を修めて、試験に受かる。」
「詳しいんですね」
きらきらした目に見つめられて、彼女は救われたような気持ちになっていた。
「私、学校の先生だから。」
そうやって笑う彼女のことを、佐竹一郎は羨望のまなざしで見た。教師という職にふさわしい人であると感じた。ほんの四十分ほど前、教師という職について彼女が不満たらたらであったことは、もちろん知る由もない。
「そろそろ、靴は大丈夫そうかな」
彼女はとても綺麗な顔で靴を受け取って立ち上がった。
「私、春日順子。今日はありがとうね。」
彼女は急に大人になった。明日からまた始まる一週間も、何だか頑張れるような、根拠のない希望が湧いていた。
「こちらこそ。僕は、佐竹一郎です。」
彼もまた、両手いっぱいに花束を抱えて立ち上がる。心なしか背筋が伸びている。今なら、家まで走って帰れるような気分だった。今のこの気持ちを、早くどこかへ持ち帰りたいような。
「そのたくさんのお花は、どうしたの?」
彼女はようやく当初の疑問に触れた。
「バイト先の店長がくれたんです。今日、お店で結婚式の二次会があって」
ピンクと白であしらわれたブーケたちは、しあわせを寄せ集めて圧縮させたようだった。
「あのね、なりたい職業が決まっただけでは人生終わらないから」
「はぁ。」
「二十代も後半になるとね、職が決まっているだけじゃあ満足してくれない人がたくさんいるから。結婚して一人前、とか、平気で思ってるやついっぱいいるから。」
また少し腹を立てながら、それでもどこか清々しい気持ちで、春日順子は毒を吐いた。
「春日さん、独身なんですか」
「そうだよ、悪い?」
咎めるような言い方は誰一人していなかったが、彼女の眼光が鋭くなったような気がしたので、佐竹一郎はぷるぷると首を横に振った。 金木犀がどこからか香ってくると、夏の影はもうずっと遠かった。いつのまにかやってきた夜の下、沁みるような柔らかい光で、星が降っていた。
〈了〉