spica.11 本のこと。
電子書籍が流行り出した頃、電車の広告を見て、なにおうっ、と、思ったことがある。
もううろ覚えなのだけれど、確か、その広告には「本が好きな人は必ず選ぶ」みたいな趣旨の見出しが大きく出ていて、何冊でも手軽に持ち運べることや、かさばらないことを売りにしていた。すぐに欲しい本が手に入る、とか。
それ、ちがう。
と、朝の混んだ電車の中で、広告とにらめっこした。
この広告がいう内容は、「本が好きな人」じゃなくて、「読書が好きな人」だ。本が好きな人は電子書籍を選ばない。なぜなら、欲しいのは本の「中身」じゃなくて、装丁とか栞とか、ページをめくるもどかしさとか、誰かと貸し借りした記憶とか、大切に持ち歩いた思い出とか、そういうもの全部ひっくるめて「本」だと思っているから。
本が好きだ。
本は紙に限ると思う。
私よりずっと紙を愛するゼミの教授は、「紙でなければ、古来の文学は現代に何一つ残らなかっただろう」と、快活な江戸っ子節で話していた。電子の文学は、つまり、電気がなければ存在することが難しい。
就活中に、出版社のエントリーシートを、文字通り死にそうになりながら何通も書いた。(一社につき5枚ずつ書かせられる、他企業に比べれば膨大な量。)
その出版社によって、「電子書籍を推奨する」ものと、「紙媒体を支持するもの」と、書き分けた方がいいということは、インターネットの情報で知っていた。
電子書籍を推奨するのは簡単だった。「利便性」というワードは万能で、ゆるぎがなくて、客観的でもあるので、手を変え品を変え、いくらでも書けた。
難しかったのは紙媒体を支持するものだった。
「好きだから」は、個人の主観に過ぎなくて、理由として少しでも突っ込まれると穴だらけだった。
なんで、どうして、を、どこまでも無尽蔵に掘り下げる面接のことを考えて、私は紙媒体を何故手にするのか、四六時中考えた。
家にあるサイン本を眺めて、サイン本は電子書籍じゃ無理だ!と、思い当たっても、その反論として、「じゃあ買った人の住所にサイン色紙が届くようにしたらどう?」などと言われたらどうしようとか、紙媒体特有の手触りや動作を押そうとすると、「それすらも再現できる電子書籍が開発されたら、そっちに乗り換えるの?」とか。
答えの出ないことをぐるぐると考えて、あっという間に夜があけた。
主観じゃないもの、社会を巻き込んで言える「紙の良さ」ってなんだろう。
しばらくずーっと、ずうーっと考えて、行き着いた答えが「本屋さんがなくならないため」だった。
何かの「専門店」は、少しずつ世の中から消えている、と思う。
お豆腐屋さんも、八百屋さんも、今はほとんどがスーパーで事足りてしまうし、傘屋さん、靴屋さん、生地屋さん、文房具屋さん…と、そのもの「だけ」が売っているお店は、時代の流れの中で着実に息を弱めているような気がする。
大好きなものだけが売っているお店は、私にとって必要不可欠な空間だ。
上手に息ができる。知らない街でも、本屋さんさえあればやっていける気がする。就活の面接前には、その企業の最寄駅近くに本屋さんがあるか確認して、面接後は必ず寄っていた。
なくなったら、嫌だった。
電子書籍が本当に主流になれば、本屋さんは簡単に消えてしまう。ただでさえ、ネットでの注文販売に押されていたりするのに。
実物に触れて、冒頭を読んで、装丁やあとがきを含めて大好きになって、という、「本を選ぶ過程」が奪われてしまう。
そう考えると、とても淋しい。
私の家には、もう自分では数え切れないほど本がある。中でもお気に入りは、自分の机のすぐそばの、一番手の届きやすい棚に並べている。
サイン本は、古書店で手に入れた物や、サイン会で直接書いていただいた物や、新刊発売のタイミングで運良く店頭でゲットできたもの、とある。
これは貸せない、自分だけの宝物。
そのすぐ下には、貸してもいい本。
貸して、誰かの反応をもらえた記憶と一緒に、共有できる宝物。
お気に入りの本ほど、お風呂に旅行にとどこにでも持っていくので、特にしわしわとしている。
私のお気に入りパロメーターでもある。
サイン本はなかなか汚せないので、同じ本が何冊もあったりする。
私がおばあちゃんになっても、本屋さんがありますように、と、これを書きながら誰かに祈った。
〈了〉