
「賢者の贈り物」
【閲覧注意】
子ども虐待が含まれる描写があります。
不快に思われそうな方は、御注意下さい。
クリスマスに土砂降りなんて、こうもついていないことがあるだろうか。
会社の自動ドアを押し破るように出た先で、誠一は天を仰いだ。街全体を洗い流そうとするその雨の勢いは、さながら、クリスマスというイベントを心底よく思わない連中の願いが具現化されたようだった。
いや、でも、今日だ。
誠一はもう一度ポケットの中に手を突っ込んだ。
ベルベットの小さな箱を手触りで確かめると、勢い良く傘を開き、濁流の中へ身を投じた。
「そんなに急ぐことなかったのに、びしょびしょじゃない」
驚きと、呆れたように笑った顔で、加奈が玄関を開けた。いま帰宅したばかりなのか、コートを着たままで、玄関にはびしょ濡れの紺の傘が立掛けられている。
「雨、すごくってーーー…。」
見ればわかるよー、と、加奈が嬉しそうに笑った。普段は少しすましたような顔をしているのに、嬉しい時はすぐに顔に出るところが、何よりも可愛いと思う。
「ーーーーあのさ!」
もっとムードを?とか思ったけれど、今が一番気持ちを込めて言える、と、その時誠一は思った。
「なに?」
加奈が洗面所からタオルを持って近づいてくる。
誠一は、びしょ濡れのコートのポケットに手を入れて、ベルベットの小箱を探した。
「あれ?」
「ん?」
誠一の間抜けな顔と、加奈の不思議そうな顔がちょうど向き合って、お互いが首をかしげた。
「なに?どしたの?」
「いや、あのーーーあれーーー」
カバンの中身をひっくり返し、マンションの部屋の前を見渡すが、あの青い、ベルベットの小箱はどこにもない。
脳みそがひんやりとして、血の気が驚くべき勢いで引いていくのがわかった。
「給料三ヵ月分ーーー…。」
「え?」
「落としたかもーーー…」
「はあ?」
加奈が口をあんぐりあけて、しばらくして、話が飲み込めたような顔をしたあとに、目をまん丸にした。
「え!もしかして、指輪?買ったの?」
加奈は僕よりずっと賢い。
雨の中濡れた体がより惨めで、泣き出しそうになりながら、ちょっと探してくる、と、誠一はエレベーターに駆け寄った。
「ちょっとちょっと!まって!」
加奈が慌てたようにあとを追いかけてくる。
泣きそうな誠一にバスタオルをかぶせた。
「あたしも一緒に探しに行くから、ちょっと待っててよ。部屋鍵開けっ放しなの。」
え、という顔で見上げると、加奈がくすくす笑って、細い指で誠一の濡れた髪をバスタオルで拭いながら言った。
「指輪が見つからなくたって、誠ちゃんと結婚するから、そんな顔しないでよ。」
ーーー*ーーー*ーーー
「ーーーなんてことがありましてね、10年前に。」
老舗の宝石店で、誠一は笑いながら女性店員にプロポーズをした日のことを話していた。
「まぁ、そうでしたかーーーその時も指輪を、こちらで?」
「ええ、そうなんですよ。10年前は渡せなかったんでね、この節目に渡そうかなと。」
クリスマスなんてベタな日に、指輪までなくして、本当に間抜けな亭主でして…と、誠一がいうと、店員は、いいえ、素敵です。と、返した。
「こちらなんていかがでしょう?昔ながらの形ではありますが、その分、ずっとお使いいただけるタイプになっております。」
あっ、と、誠一が声をあげた。
「これ、これですよ!10年前もこれを買ったんです。ここで!いやぁ、奇遇だなぁ。以前も勧めていただいたんですよ。同じものを。僕は自分のセンスに自信がないので、じゃあそれを、って。これは嬉しいなぁ。同じ形がまだありましたか。」
「当店では少し古い形のものですので、お値段もご予算に見合うかと。」
「あれ、本当に?なんだか昔はもっとずっと高かったような気がーーー型落ちってやつですか?有難いなぁ。子どももいるので、あまり高いものはと思って、でも諦めきれず、見に来ちゃったんですよ。嬉しいなぁ。今度はなくさないように、細心の注意を払って持ち帰ります。」
ははは、と、人の良さそうな顔で誠一が目尻を下げた。
只今お包みいたしますね、と、店員は声をかけると、足早に誠一の元を去った。
アイラインが歪まぬように、目に力を入れて、十年前のクリスマスに想いを馳せた。
ーーー*ーーー*ーーー
望まれない子ども、っていると思う。
あたしがそうだ。
紗音はアルバイトを終え、ぼんやりとした頭で帰路についた。なんとか中学までは通えたけれど、高校は、やはり通わせてもらえなかった。
弟は入れ替わりに、新品の洋服と靴と、ぴかぴかの文房具を持って、中学に入学した。
愛してもらえる子どもと、
愛してもらえない子ども。
弟は今のお父さんとお母さんの子ども。
あたしは、前のお父さんとお母さんの子ども。
そりゃあ愛されないよなぁ。
仕方ない、仕方ない。
何度、自分に言い聞かせたかわからなかったけれど、あたしは今の状況を受け容れるしかなかった。
あたしの存在が家族の中で迷惑をかけている分、家のことは全部やるし、少しでも負担にならないようアルバイトだってする。
ーーー紗音、高校行かないの?
友だちがそう言ってくれたとき、ものすごい格差が、あたしと友だちの間にあることを気づいた。
学校の先生も、家庭の事情で、と繰り返す母に何度か進言してくれたらしいけれど、あたしの進学は、叶わなかった。
そんなことを傘の中で考えながら歩いていると、アルバイト先のコンビニから少し先に、小さな青い物が落ちていた。水圧に押されて、悲しげに濡れている。
思わずびしょ濡れのそれを拾い上げると、高そうな宝石を入れる箱だ、と、あたしでもわかった。
傘を首と肩で挟んで、その青い箱に力を込めて、開けてみた。見たことのないくらいキラキラしたダイヤモンドが一粒、細身のリングについている。
あ、やばい。
と、その時、16の私は思った。
これ、絶対に持ち主の人が困ってる。
それと同時に、誰かが囁いた。
ーーーこれがあれば、逃げられる。
あの家から、あの、あたしを殴る両親から、ご飯も満足に食べられないあの家から、逃げられる。
誰かの一生分の勇気かもしれないそれを手の内に握り締め、あたしはしばらく呆然とした。
どの季節でも着ている長袖長ズボンの下に散らばった痣のすべてが、あたしに向かって、逃げろ逃げろ、と、怒鳴っているようだった。
雨が、うるさい。ーーーうるさい。
結果、あたしは、その場で泣き崩れた。
こんなにも、心まで惨めなあたしを、誰が愛してくれるのだろう。逃げたところで、未成年がどうやって生きていけるのか。
わんわん泣いていると、ゴミを捨てに来た店長の奥さんがあたしを見つけ、驚いたように駆け寄ってきた。
「紗音ちゃん、何してるの、こんな雨の中!」
とにかく来なさい、タオル貸してあげるから!と、力強く手を引いて、そして、ようやく私の手のひらに握られた小箱に気づいた。
「ーーーそれ、拾ったの?」
こくり、と、頷くと、泣きじゃくる私の肩を持って、奥さんは事務所にあたしを連れ帰った。
「この指輪、売ってお金にしなさい。」
なんならあたしが買うから、と、奥さんは言った。
暖かい麦茶をもらいながら、あたしが、え?という顔をすると、奥さんはあたしの腕や足に、申し訳なさそうな顔で視線を送った。
「ーーー見えちゃったの。その、痣を。」
唇を少し噛んで、奥さんは青ざめるあたしの手を強く握った。
「あたしには、子どもがいないわ。」
ーーーできなかったの、と、奥さんは消え入りそうな声で言った。
50過ぎくらいの、人の良さそうな店長夫婦は、本当によくしてくれた。廃棄のご飯を自由に食べさせてくれ、時にはコンビニの上にある自宅に招いて、ご馳走になることもあった。
シワの一つ一つに、人の良い表情を何度も形成した跡が刻まれている。
あたしが唯一、信用できる大人だった。
「あんな家に居てはダメ。」
奥さんの声は、さっきのあたしよりもずっと震えていた。
「なんなら、うちに、来て欲しいくらいよ。」
あなたは本当にいい子だわ、と、唇を震わせながら、あたしの腕に手を置いた。
そのあとの数ヶ月間は、怒涛の日々だった。
自分自身でも何が起きたかわからないまま、気づけばあたしは祖母に引き取られ、二度と両親や弟に会うことがなかった。
覚えていることは二つだけだ。
裁判をやるよ、と、祖母と店長夫婦と四人で話したこと。
そして、
裁判のお金にする。ごめんね。
と、指輪をお金にしたこと。
「ーーーこの持ち主に、とってもひどいことをしてるって、わかってるわ。」
奥さんは言った。
「でも、これは私が勝手にしたことよ。あなたが拾った指輪を勝手に売って、お金にしたのは、私。」
あなたは気にしないで。と、奥さんは言った。
だけど、あたしはその指輪よりずっと高いお金を、店長夫婦が用立ててくれたことを知っている。
年金暮らしの祖母ではあたしを復学させることも、親権を得ることも到底無理だったと思う。
必要なお金だった。
けれど、どうしても、この持ち主に何かしたかった。
大学を奨学金で卒業すると、あたしは迷わず、あの指輪の箱に書いてあったブランドに就職を決めた。
ーーー*ーーー*ーーー
「大変お待たせ致しました。永瀬様。」
店員がコツコツと、小さなヒールの音を立てて戻ってきた。
「なんだろう、ずいぶん安い気がーーー」
「お気を悪くされましたら申し訳ありません。以前から御贔屓にしていただいた、ささやかなお礼でございます」
「いや、有難いなぁーーー本当に、いいんですか?私としてはこちらからお願いしたいくらい有難いお値段ではあるんですがーーー。」
「はい。お持ち帰りください。」
誠一は、不思議に思いながらもほっとしたように、笑みをこぼした。
「じゃあ、すみません。いただきます。」
「ありがとうございます。素敵な奥様と、末永く、お幸せに。」
「ありがとうございます。では。」
イルミネーションが灯る中を、誠一が遠ざかっていく。紗音はその後ろ姿を随分と長く見守ると、店の中へ戻った。
「君が建て替えるってことで、いいんだね?」
「はい、勝手な真似をして、申し訳ありませんでした!」
はあ、と、ため息をついて、支配人らしい男性がなにやら帳簿に書き込んだ。
「ーーー話には聞いていたからね、まあ、いいだろう。今回だけだ。」
普段の君の勤務態度が良かったことが幸いしたな、と、上司であるその人が、それでも顔をしかめていった。
「今日はお世話になった人のところに行くんだろう?早く上がりなさい。」
「はい。ありがとうございます。」
上司には昔から恵まれるなあ、と、紗音はこの表情の不器用な上司に礼を言いながら思った。
少しいいお酒を買っていこう。
土産話をたくさん持って、紗音はタイムカードを切った。
〈了〉