「ハーメルンの笛吹は黒い羊の夢を見たか」
幼稚園児らしき集団がスイミングスクールの黄色いバスに吸い込まれていく。
「なんだかハーメルンの笛吹を思い出すなあ」なんて、ぼんやりと見ていたら、斜め前のコンビニエンスストアからいかにも目がイってしまった男が憑りつかれたようにそのバスへ歩み寄っていった。
思うよりも先に動いていた。
何となく黄色いバスに近づけてはいけない気がして、何となくで歩み寄ったら、向こうは小さな銀色の刃物を右手に持っていた。そこから先は正直あまり記憶になくて、視界が赤くなって、急速にフェイドアウトしていく世界の中で、よくわからぬまま目を閉じた。
―――*―――*―――*―――
白い部屋だった。
目が覚めると妙に体が軽くて、穢れや汚れを全部除いたような部屋にいた。
目の前には白い扉と黒い扉があって、何の気なしに黒い扉へ手をかけると、ガチャリと鍵がかかっていた。
「おやおや、そちらではないですよ」
鼻にかかるような妙に高い声がして振り向くと、白い服を着た青年が立っていた。何だか違和感を感じてよくよく目を凝らすと、青年の耳元には羊の角のような渦巻いた乳白色の何かが付いていた。まさか本当に羊の角ではないだろう、なんてぼんやり思っていると、その白い羊の青年は、にこにこと笑いながら手招きをした。
「駿河 ダイキさんでらっしゃいますね?」
僕が頷くと、青年はなおにこにこと口角を吊り上げて、白い扉の前へ僕を誘導した。
「お待ちしていたんですよ。何しろあなたは、まことに、素晴らしい」
たっぷりと間を取って、そしてもう一度「すばらしい」と、その青年は繰り返した。
何がですか?と、聞く前に扉が開いて背中を押された。相変わらず真っ白な部屋が続くその先に、10名ばかりの白い服を着た老若男女が拍手をしながら出迎えた。
「栄誉ある、白の部屋へようこそ。」
青年が扉を閉めた。みんなにこにこと口角を吊り上げ、大歓迎といった感じだ。訳の分からない顔をする僕の前で、青年が大きなモニターのスイッチを入れた。
「では、主役が到着したところで、本日からこちらにいらっしゃった駿河ダイキさんの偉業をご紹介させていただきます」
モニターには黄色いバスと、その周りにひしめく無数のパトカーを映し出した。
「あ」
「思い出されましたか?」
青年は本当にうれしそうだった。
「あなたは多くの幼き魂を救い、ここにおられるのですよ。」
―――*―――*―――*―――
話はこうだ。
この白い部屋には、自分の身を挺して誰かを救った英雄しか来られないという。僕もその一人で、彼らにしてみれば僕は正義感の塊で、素晴らしく崇高な魂で、迎える我々もまことに誇らしい、と、白い部屋で、モニターの前で、僕はさんざん褒められた。
さすがに悪い気はしなかった。
あまり覚えてなかったはずの当時の記憶を無理やり掘り起し、何だか少し大げさな心理描写を脚色して、いつのまにか鼻高々に語っていた。白い部屋の住人達はそんな僕を尊敬のまなざしで見つめ、「すばらしい」を何度も繰り返した。
「世の中には命を奪うことを称賛する輩もいるのですよ。本当に畜生の極みのようなね。隣の黒い部屋に、そんなやつがいるんですがね」
苦虫を20匹ほど噛み殺したような顔で、初めて白の部屋の住人たちの顔がゆがんだ。
モニターが切り替わった。
「あ」
「覚えておられますか?」
モニターに映ったのは、泣き崩れた彼女だった。よく見るとどうやら場面は僕のお葬式のようだった。
「誇り高き魂を持つあなたとお付き合い出来て、なんと喜ばしい彼女さんでしょうねえ」
「ええ本当にうらやましい」
「彼女さんはあなたを誇りに思っているでしょうね」
白い部屋の住人が口々に彼女を羨ましがったが、とても羨ましいなんて思えないほどの憔悴ぶりに、それまで意気揚々としていた僕の感情が急速にしぼんでいった。あれ、そういえば僕、あの日早く帰ろうとしてたんじゃなかったっけ―――。
モニター越しの喪服の彼女は、やつれて、白くて、小さな衝撃にも耐え切れなさそうな脆さだった。ああそうだ、彼女が熱を出して、僕は急いで彼女の家に向かっていたのだ。土曜日だった。一刻も早く彼女のもとに行きたかったのに、誰よりも守りたかった人を守れないまま、幼い命は確かにたくさん救ったけれど、あれ?一番大切な人をこんなに泣かせている僕は、果たして、本当にいい人だったのか―――?
にこにこと口角を上げる集団の中で、唐突に湧き上がる疑問と、もう彼女に会えない恐怖で、僕は唐突に立ちあがった。
思うよりも先に行動していた。
白い扉を蹴り破って、白い部屋の住人が大騒ぎで止めるのも聞かず、部屋を飛び出すと夢中で訳も分からず走った。走った先で白い世界がフェイドアウトしていくのも気にならず、彼女のことだけ思って走った。
―――*―――*―――*―――
「こんなに買ってきてくれたの?ありがとう」
ゼリーやヨーグルト、冷えピタを山ほど買い込んでやってきた僕を、彼女は嬉しそうに出迎えた。
「今物騒な事件が近くであったみたいでね、ニュースやってるんだけど」
彼女の家のテレビには黄色いバスと、血に濡れた道路と、たくさんのパトカーが映った。
「よかった。大ちゃんに何にもなくて。」
よかった、と、震える声で彼女がもう一度言った。
ニュースではスイミングスクールのバスを襲った惨劇が語られていた。僕一人の命と、それよりずっと無垢で数多い命が奪われたことに、罪悪感で胸が痛んでいたけれど、今彼女の隣で抱きしめることのできる幸福は何にも代えがたかった。僕は悪い奴だ。そして、悪い奴でいい。
逮捕直後のアイツが画面に映し出された。
―――黒い部屋に行くんだろうか、と、ぼんやりと思った。
〈了〉