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1990年のシルクロード.その3(アクス〜クチャ〜コルラ〜敦煌)
アクスに到着。
バスはアクスと言う町に21時前に到着した。砂漠の中の水郷だ。乗客は全員同じ宿である。料金は一泊8元(260円)。周建華君によると、ここは4月にウィグル族の騒乱が起きた街だという。宿の消灯後、部屋を開け懐中電灯の光で宿泊客を一人一人確認して歩く者がいる。共同トイレの場所は宿の外である。朝まだ薄暗いころ、いかに道端の糞を踏まずに無事トイレへと辿りつくかは大いにスリルのあるテーマであった。しかしトイレの内部は既に排せつ物で飽和していた。ここは人情として外で済ませたいところであろう。時間の経過と共にさらに離れた場所が選ばれるようになり、トイレへと向かう一本道の両側は糞のオンパレードなのである。
7時半出発する。8時半、雪の天山山脈が白く輝きはじめ、その五分後、タクラマカン砂漠からは今日の太陽が登って来た。今日は快晴。青空である。相変わらず岩石砂漠を走りつづける。見えるものは昨日と同じ電信柱の列。途中からバスに乗って来た少女はポリ袋に入れた小さなバッタを大切に握っていた。
クチャの町
6時間でクチャの町に到着した。「青春飯店」に入る。9元(300円)である。宿の巨大なシャワーを浴びて砂漠のほこりをすっかり洗い落とし、久しぶりに洗濯をする。洗面所には「ここに小便した者は罰金50元」と書いてある。
クチャは3世紀から8世紀にかけて亀茲(キジ)国という仏教王国が栄えた。玄奘(三蔵法師)もインドへ向かう途中でここへ寄っている。
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今日は金曜日。休日である。バザールは大変なにぎわいだ。大勢の人たちが近郊から馬車やロバ車に乗ってぞくぞくと集まってくる。老人も子供も連れ家族全員が、市場で買い物をし、知り合いと出会う社交の場でもある。子どもたちはスイカを買ってもらう。あたり一面にシシカバブを焼く匂いが漂っている。
キジル千仏洞
翌日我々三人はクチャの郊外70kmにあるキジル千仏洞へ行くことにした。ここは亀茲(キジ)国の仏教遺跡である。『大唐西域記』によると、かってクチャには百余カ所の伽藍があり、五千余人の僧侶がいたという。
拝城までバスに乗る。ここから一人5元(160円)を出してロバ車を雇ったが、歩みはのろく力は弱くて役に立たないことが分かった。三人はあきらめて、男の引くロバ車の後を歩いた。劉有林君は、たった0.5元(16円)で買ったスイカを大切に頭の上に乗せて歩いて行く。
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千仏洞の岩壁に掘られた石窟に入る。暗闇の中に見たのは彩色された古い仏画であった。かって、このような絵を描いた、仏への深い思慕を持った人たちが、荒涼としたこの地にいたことは、人が何にその短い一生を捧げるかという問題を考えさせてくれる。石窟内部の塑像は、長い時間の中で、多くが破壊され、仏画は切り取り持ち去られているが、残された仏や菩薩の姿かたち、鮮やかな青・水色・黒・橙といった絵具、特にふんだんに使われた青と水色は印象に残る。
ウィグル歌舞団のバスに乗せてもらう。
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千仏洞からの帰りは、たまたまやって来たウィグル歌舞団のバスに乗せてもらう。ウィグル族の歌舞については、“屈支国(クチャ)は・・・管弦伎楽は特に諸国に名高い”と玄奘三蔵『大唐西域記』にも記述がある。一行は10数名のウィグルの美男美女であった。歌も踊りもうまいのだろう。機会があれば見たいものだ。
コルラで鉄道の切符を買う。
コルラへ着いた。ここはタクラマカン砂漠の工業の町である。漢族が多くなる。街は殺風景で見るものは無い。中国の鉄道が走る最西端の町である(2016年現在、鉄道はその後、さらに西のカシュガルへ、南はホータンまで延長されている)。
駅へ行ってみると、一日おきにコルラを出る西安行き急行列車の無い日であった。駅前旅館に停まる。1泊4元(130円)は今回の旅行では最低の料金である。広くて明るい部屋に一人、と思っていると漢族が一人入ってきた。彼は部屋の一角を占領する。さらに2人の客が増え、ここは4人部屋なのであった。男は3階に、女は2階と分ける。夫婦と言えども別の階である。「トイレはどこ?」と聞くと「没有(ない)。外でやれ」「シャワーは?」「没有(ない)」。(しかし蛇口は2階に1つだけあった)。「食事は?」「没有(ない)」。しかし、ここは家族で経営する、感じのいい旅館であった。
翌朝、駅へ行って、切符を買う列に並んだ。人は少ないので、よくある中国の切符売り場の混雑はない。行き先を書いた紙を黙って渡すと、何だか言っているが中国語はわからない。やがて一人の女性がやって来た。彼女はこう言った。「Just wait a moment please. 少しお待ちください」そういうとどこかへ消えてしまった。ベンチで待つこと20分、30分。外国人が切符を買うことはあまりないのだろう。彼女が戻って来る。思わず立ち上がると、彼女は先程と同じ硬い表情で言った。「Just wait a moment please. 少しお待ちください」全く同じ英文であった。そして彼女は再び現れなかった。その一時間後、僕は楊園行きの切符を手にした。
コルラ13時発急行列車は、山脈を越えた後、一日中何もない荒野を走りつづけた。昨夜は列車の中でNHK「心の時間」を見た。話されたのは青山俊菫尼であった。京都高倉の宗仙寺に時々来られて、清々しい講和をされる方である。こんな所でお話を聞くとは意外であった。
夕刻、柳園着。敦煌第二賓館に泊る。ここはもう完全な漢人世界である。
敦煌の飛天たち
敦煌は甘粛省のオアシス都市である。ここもシルクロードの交差点である。
敦煌の入口に立つとき、今にも押し寄せる砂漠に埋もれて消えそうな、莫高窟の姿に人間の力強い意志の力を感じる。中には、五世紀から十五世紀にかけての、北涼期・北魏・随・唐・五代・元と紡がれてきた、仏や菩薩像が浮かびあがり、飛天たちの舞う姿がある。空間を滑るように落ちてくる飛天は一瞬動きを停める。その天衣が翻える。そして体をよじると別の空間をめざして飛翔する。
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もうすぐ、陽が落ちようとしている鳴沙山に登る。ものの影がますます長くなり日中の暑さが去ろうとしている。砂の海の間を登って来る観光客たち。上には飲料水を売るおばさん達が待っている。細かな砂は風に舞い、波模様が遥かな地平線にまで広がっている。
中国大陸を行く長距離列車。
鄭州行きの切符を1等軟臥(寝台)473元(15600円)で買わされる。1等軟臥の乗客は特権階級の人たちである。中国人は年齢制限・収入制限・パスポート所持などの条件がそろわないと乗れない。外国人に対しては、他の切符はないといい、一等軟臥に乗せる方針であるらしい。おまけに外国人料金は中国人の2倍である。庶民の利用する2等硬座(座席)は一年前までは、その乗車率が200-300%であったという。中国では列車の旅は大変なのである。
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柳園発15時50分特快北京行きの一等軟臥は4人1室である。洛陽大学の日本人留学生で気功と中国語の勉強をしている夫婦と同室であった。不思議な夫婦だった。40歳くらいだろうか。日本の障害者施設で働いていて知り合ったと言う。2人とも実に落ち着いた、精神的にゆとりのある人である。「どんな国でもやっぱり優しい人がええなあ」という。
昼過ぎ鄭州に着く。ここから2等硬座に挑戦しようと思う。鄭州駅で並び、うまく北京行き特快の2等硬座乗車券を買うことが出来た。
中国では乗車時刻になるまで駅の中に乗客を入れない。どの駅の外も乗車時間を待つ人で溢れかえっている。8時間を鄭州駅の外で過ごした。日陰でぼんやりと過ごし時々は街を歩いてみる。中国人は慣れているのだろう、昼寝をしたりゲームをしながら時間を潰している。あたりまえらしく、退屈そうには見えない。
駅のトイレには番人がいる。小便タゴをリヤカーで運んでいる。男の小便は3毛(10円)。男の大便と女は紙が付いて5毛(17円)である。
いよいよ乗客は一列に並んでプラットホームに誘導される。2等硬座は一般乗客の車両である。心配したが席を確保する事が出来て一安心。夜行列車の中では、少しは眠っただろうか。列車は2時間遅れて北京駅に午前8時に着いた。乗客のマナーは悪い。タンやつばをどこでも吐く。どでかい荷物を強引に持ち込む。一人の男は、「北京」と大書された袋に、10リットル入りのポリタンクや綿入れ布団はじめ大量のものを詰め込んでいる。列車が駅に近づくと乗客は勝手に降りてしまう。窓から出入りする。ものを何でも捨てるので、うっかり窓を開けることは危険である。水は出ない。洗面台はゴミを捨てるのですぐ詰まってしまう。
最終地の天津駅に着いた。「天津新港国際海員俱楽部」に泊る。66FEC(2200円)するが、クーラーもバスも付いた別世界である。
天津から船で神戸へ
この街で出会った漢族の人たちには正直うんざりした。夕飯を食べないか、ダンスパーティーへ行かないかと誘ってくる。行けばタダでは帰れないだろう。女にものを尋ねると「Ah?」と不機嫌な返事が返ってくる。「不没(ない)」は常套句である。男はニコニコと愛きょうのある人もいる。何故かやたらとズボンを脱ぎたがるし、ランニングシャツを胸までまくりあげて歩くのが好きだ。フェリー埠頭まではタクシーで20元(660円)だという。バスで行くと3毛(7円)だった。写真屋の店頭に展示してある写真を見ていると、婆さんが突然喚き出し警備係りの所へつれて行かれる。
8月7日18時。燕京Yanjing号は天津港を出る。この春就航したばかりのフェリーは乗客が30数名であった。昼飯時になると、中国人の女従業員たちはおもてに出てきて一斉に床にしゃがんで丼飯を食べている。それを眼にした支配人が大声で怒鳴りつけている。船は穏やかな東シナ海を航海して8月9日の朝、関門海峡から瀬戸内海に入った。
パキスタンからここまで。大地の大部分は岩山と砂漠;であり、河の大部分は泥流であった。日本列島。やさしい緑を見るのは久しぶりだ。緑があるのは水があるということである。日本は水に恵まれ緑の美しい国だと思う。
8月10日午後7時、神戸港沖に投錨する。朝まで上陸出来ず船内に留まる。
(旅行経費)
成田―イスラマバード 航空券 85000円
天津―神戸 フェリー乗船券 29000円
大阪―東京 7500円
旅行中経費 82419円
総計 203919円