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1987年のチベット.その2

チベット高原を行く


8月8日8時半。2台のバスはラサを出発し国境のニャラムへと向かう。山野さんとレイノルド君が一緒である。隣の座席のチベット人の娘は英語の教科書を持っていた。少し英語で会話をした。18歳だという。西洋風の身なりをしている。しかし最初のバス休憩の後、彼女はもう一台の現地人用のバスに席を替わっていた。現地人と外国人旅行者との接触を防ぐためだろう。

バスの乗客を見に来た人達

バスは西へ、シガツェへと向かう。バスが停まると乗客を見に人が集まってくる。大きな箱をかついだ男が「ホーッ」と感心した顔付きで我々を見物している。カムパ・ラ峠4750mに着く。ラマ教の祈りの旗タルチョの五色の旗が風にはためき、眼下に拡がる「トルコ石の湖」ヤムドゥ湖は神秘的な青い色をしている。灰褐色と青褐色の山々のかなたに白い峰々が垂れこめた雲に覆われている。

ノジン・カンツァル峰(7206m)山麓からカロー・ラ(5045m)へ伸びる氷河の近くにバスは停まる。東へ向かうヤルンツァンポ河は、プラマプトラ河と名前を変え南のインド・アッサム地方を通り、バングラデッシュでガンジス河と合流してベンガル湾へ注ぐ。

カンパ・ラ 峠で出会った子供

シガツェに到着

電信柱は土製となった。全てが土と泥の世界だ。
午後9時前。シガツェに到着する。ラサに次ぐチベット第二の街である。
標高3836m。5元(200円)の宿に泊まる。実に静かな街で何も売っていない。
タシルンポ寺を見る。

8月9日。シガツェ。4000mのチベット高原の朝である。
バスの中で一首。 “いずこより 来たりし花や 泥の河”
昼飯を食べていると、ラジオから村田英雄の「お前」が聞えてきた。
チョーオユー峰へトレッキングに行って来たという白人と会う。アメリカ航空宇宙局NASAの地図と、食料・テント・燃料を持って一人で歩いてきた。公安警察もいないので自由に歩けるそうだ。このあたりはほとんど無人の高原地帯である。

定日 ティンリー付近

定日ティンリーへ午後五時着く。標高4300m。草原を囲む山々。ここはヒマラヤの北側であり、天気が良ければサガールマタ峰(エベレスト)が左に見えるはずだが、そのあたりはぼんやりと霞んでいる。

夜の虹


大雨の中を珠峯に到着する。午後十時。かすかに残照の残る地平線から地平線に向かって180度のすばらしい虹がかかる。夜は激しい雨になる。晴れ間にオリオンとスバルが見えた。

珠峯 午後10時 地平線にかかる虹

8月10日。8時出発。天気は回復する。昨夜の新雪が山肌に夢の名残のようにうっすらと残っている。「ラサより629km」の道標で右手にシシャパンマ峯(8013m)を中心とした白い峯が見えてきた。チベットノロバの群れが移動している。標高5200m地点で昼食休憩をする。青いケシがあたり一面に咲いている。中国製のトラックがやってくる。荷台に数人の男女が立っていた。

チベット高原を駆け抜ける中国製トラック

ニャラム(3810m)へ12時着く。次第に森林が拡がり花が増えてくる。湿気が増えたのを感じる。バスはニャラム行きのはずだったのに、何故かジャンムーまで行くと言う。13時20分発。バスは標高を下げる。緑色の植物やコケがますます増える。切り立つ崖を落ちる川の流れも見える。お花畑のある夏の日本アルプスの景観である。

青いケシの花

ネパール国境越え

ニャラムから30kmを走り、15時、中国領最後の町ジャンムー(2350m)に着く。ネパール領コダリまでは7kmである。ニャラムから2000mも降下しただろうか。小さなイミグレーションのまわりに数名の若い中国人女性係官がいる。みんな笑顔である。パスポートをチェックし、恥ずかしそうに一言「オクペション?」という。Occupation(職業)を訊いているのだ。

16時。歩いて中国を出国する。雨で山が崩壊し岩石が落ちてくる。17時コダリに着く。ついにネパールへ入国した。タトパニのソロクンブホテルに泊まる。銀行がないので宿にて換金するが1元が4ルピーと率が悪い。

8月11日 雨季は、午後になると雨になるとのことで、朝5時に出発する。カトマンズまでは140kmである。山野さんとレイノルド君はポーターを雇う。相当ぼられる。一人50ルピーの相場を(後でわかった)150ルピーで契約してしまう。おまけに二人分を一人で担ぐから250ルピーでいいなどといわれる。

洪水で寸断された道路

雨季の大洪水で道路はずたずたに寸断されている。復旧のめどはたちそうにないらしい(後で新聞で知ったのだが、記録的な20年振りの大豪雨だという)。しかしネパールは人の行き来がさかんである。小さなトラックが人を集めては短距離を走ってかせいでいる。ネパールからチベットへ向かう旅行者は多い。中には50ccバイクでやって来たヨーロッパの女性もいる。日本人には一人も出会わない。

バラビセに着く。

チキンカレーを食う。久しぶりにうまいものを食べた。現金が全く無くなったので、山野さんと銀行へ換金に行く。ところがここではドルの現金しか替えないという。旅行小切手も日本円も替えられないと言う。おまけにカトマンズまで銀行は全くないらしい。これでは、ポーターの支払もできない。二人とも途方に暮れてしまった。係りの男は我々に同情してくれたのだろう。日本円をルピーに換えてやるといいだした。そして1万円札の福沢諭吉の絵を指して、この人物について説明できるかと言う。山野さんが英語で説明するとOKが出た。彼は自分が読んでいた新聞を開き、レート欄をみて計算をしてくれた。ルピー札が我々の手に渡る。やれやれこれで助かった。カトマンズへ行ける。

バラビセから先はバラピィまで4,5時間は歩かなければならないと言われたが、3台のトラックを乗りついで行く。トラックの上から「カトマンズまで78km」の道標を見る。バラピィに14時着。運よく14時20分発のカトマンズ行きバスに乗ることができた。

9年ぶりのカトマンズ


午後6時半、雨にぬれたカトマンズの街に到着する。上海をでて19日目である。ThamelのBlue Diamond Hotelに泊まる。なつかしいUtze Restaurantに行き山野さん・レイモンド君と旅の成功を祝って乾杯した。

カトマンズを以前訪れたのは1973年~1974年と1977年~1978年で、今回が3度目である。前回からは9年が経ち、街にも人にも変化が感じられた。民族衣装の人が減った。太った人が増えた。車が増えて小さな路地にまで車が入りこむ。穏やかなネパール人の表情や、古い建物や、人々の静かな暮らしが減り、カトマンズは観光客が主人公となる街になりつつある。

1973年、初めてのカトマンズは、まだインドとの間に道路が開通していなかった。車はインドで一旦解体してポーターが運び、カトマンズで組み立てた。だから、カトマンズには車はほとんど走っていなかった。
二度目のカトマンズの時も青空は澄みヒッピーたちで街は活気にあふれていた。ガンジャ(大麻)の匂いが通りに漂っていた。ゲストハウスには「ロンドン行き長距離バス」の広告が貼ってあった。
今は晴天の日でもスモッグがカトマンズ盆地をどんよりと覆っている。車が増えたのである。道端でうんこをし、夜は火を焚いて暖を取っていたあのカトマンズはもう無くなった。

郊外のバドガオンへ行ってみた。中国製トロリーバスは、汚れて傷んだが今も走っていた。ここも街は観光地化し、華やかになり、物売りや乞食は増えたが、昔のカトマンズの町の雰囲気が残っている。人々は通りに座り、物を売り、話を楽しんでいる。緑の稲田では女たちが草取りをしている。昔の日本にあった風景である。地方は、カトマンズと違い、あまり変化していないのではないだろうか。

ゴサインクンドへ植物の撮影旅行に行ったという高校の先生の話。「旅行中は、質の悪いポーターにいつも腹を立て、村人に会っても、形式的に頭を下げて“ナマステ(こんにちは)”を言っていましたが、どうも毎日が楽しくない。どうしたらいいのか。そこで、村人の顔を見て、笑顔で挨拶をするようにしました。そうすると、笑顔が返ってくるようになりました」

カトマンズに3泊し取りあえず香港行きの航空券を買った。香港では日本への航空券がなかなか手に入らず足止めを食ったが、8月19日やっと帰国した。この旅行に要した全経費は19,6728円であった。出発時に65kgあった体重は60kgになっていた。

チベットへの共感
これを書いている現在は2014年である。1987年(27年前)のようなチベット・ネパール国境を越える自由旅行は現在不可能な状況にある。

チベットの状況について少し触れておきたい。1950年中華人民共和国はチベットを自国領と主張し、人民解放軍はチベットに侵攻し、翌年チベット全土を制圧併合する。それ以来現在に至るまで、チベット人の抵抗運動と中国政府の弾圧が続く。中国政府はチベット独立を分離主義と非難し、中国への併合および抵抗運動への弾圧を正当化している。チベット人の仏教信仰と生き仏ダライラマを排撃し、チベット人の遊牧地を取り上げ、漢人の大量入植を進めていることは現在も変わらない。

1956年チベット動乱が起きる。1959年ダライラマ14世はインドへ亡命した。1966年中国に文化大革命が起きる。1976年毛沢東が死去する。
1980年代に入り、チベットの自治が強化されるように変化が見られた。信教の自由や僧院の再建が始まる。中国政府は弾圧政策を続けたものの、観光政策としてチベット開放路線を取り、1982年には外国人旅行者にチベットが開放された。さらに1985年は個人旅行も可能となる。

従ってこの記録に書かれた1987年という年は、チベット旅行開放の只中にあった年である。記録によれば4,7000人の外国人がこの年チベットを訪れたという。憧れの土地チベットの地を踏み、さらにチベット各地が外国人に開放されることを、地平線をめざす世界中の旅人が夢見た年であった。又これまで世界から隔離されてきたチベット人にも、中国政府や漢人と異なる外部世界の様々な情報や人間に触れ、不当な支配を外部に訴え、旅行者を「熱烈歓迎」し「Chinese no good !」と叫んだ年でもあった。

しかし、私がチベット旅行を終え、帰国した翌月の9月27日、ラサ市内を数十人の僧侶がチベットの旗を掲げて行進し、これをきっかけとした市民デモは武装警官との衝突に発展し死傷者が出る。その一週間前の9月21日、ダライラマ14世はアメリカ議会で演説し、中国政府に対し次の「五項目和平プラン」を提示している。

  • チベット全土を平和地帯とすること。

  • 民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄。

  • チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。

  • チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処理の場所として使用することの禁止。

  • 将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。

デモは繰り返され1988年はラサを中心として広範囲に暴動が始まった。チベット自治区党書記となったのは、後の国家主席となる故錦濤である。彼は1989年ラサに戒厳令を布告し、会合・行進・陳情・請願・集会を禁止した。中華人民共和国成立後、初めての戒厳令であった。(二度目は1989年 天安門事件)

最近のチベット旅行事情を知るため、日本で出版された旅行ガイドを読んでみた。事情は1987年と大きく変わっている。2014年現在個人のチベット入境は認められない。旅行はツァーを組みガイドをつけることが条件である。西寧からゴルムド・ラサへのあの長いバス移動は、新設の青蔵鉄道に替わった。この料金は高額で乗車券は簡単に入手できないという。中国政府のチベット観光政策に基づくお墨付きの旅行が、一部の中国富裕層と外国人観光客に提供されている現状である。

安宿と人との出会いを楽しんだ気ままなバックパッカ―の旅は排除されてしまった。観光業もラサに進出した漢人の手に押さえられているという。ラサの人口は今やチベット人よりも漢人の方が多いらしい。ラサ市街の土地計画ではチベット人は彼らの居住地を追われているという情報に憤りを感じる。このままでは、チベットはますます衰退するのではないか。私達は、先住民族の生活と文化が、より強い民族に滅ぼされていった世界の歴史を知っている。中南米の先住民がスペイン人やポルトガル人の手で。北米やオーストラリア・ニュージーランドではアングロサクソン人の手で。アイヌも倭人の手によってまたしかり。チベットで同じ歴史が繰り返されている。


チベットの大地、チベット人の生活、チベットの文化をチベット人の手に。



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