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1987年のチベット.その1
神戸発「鑑真号」
7月21日午後1時。神戸港を出た日中国際フェリー「鑑真Jian Zhen号」の二等船室は夏休みに入った学生達で溢れていた。
隣の若者は気功の勉強に二度目の上海だという。ご飯と梅干で倹約して26万円をためて来た東京の学生は2か月の旅行である。中国では安くて腹いっぱいの食事ができると信じているが、船の食堂は安くないし、少し心配になってきている。オーストラリア人と結婚した女性は故郷の内モンゴルへ初めての帰省だ。
私は1カ月の予定でチベットをめざし、出来れば国境をネパールへ越えたいと思っている。
チベット・ネパールの国境が個人旅行者に開放されたというのだ。
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計画では、上海から青海省へ列車で行き、バスでゴルムドを経由しラサへ。ラサからバスで国境をめざし、歩いてネパールへ入国するつもりである。ネパール国内は何とかなるだろう。乗客の色々な期待を乗せて、船は一路上海へと向かっている。
翌日は一日海上であった。台湾付近にある台風の影響で船は揺れ、大浴場の湯舟から景気よく湯が溢れている。三日目の朝。陸地はまだ見えないが、船は一面の泥海の中を進んでいる。揚子江が運んできた泥砂だという。何と巨大な河なのだろう。遠くの上海の街がゆっくりと近づいてくるとやがて船は黄浦江を遡行し始めた。両岸に並ぶ建物、すれ違う様々な型の船、通りを往来する人々、すべてが写真で見た戦前の日本を思わせるセピア色の世界である。午前10時半、船は動きを止める。下船する乗客の列の先頭に立ちステップを飛び降りた。
1987年の上海
まず宿を決めなければならない。前評判のいい浦江飯店へ行ってみると、無愛想な受付の男が「部屋はない」という。空室待ちリストに名前を書くと、嫌な顔をして「人に言わないでください」「あなたで終わり」などと日本語でいう。駅へ行く。乗車券売り場では、硬臥(2等寝台)は5日前から売るといい、しきりに軟臥(1等寝台)を勧めてくる。居合わせた日本人学生の話によると、硬臥の入手は困難らしい。あきらめて上海―蘭州の軟臥を外国人料金213元(8500円)で買う。彼が泊まっている「運動員の家」へ行ってみると2泊で20元(800円)と言うので泊まることにした。場所は静かだしシャワーもクーラーもある。
最高のフランス料理店と折り紙つきの「紅房子西菜館」へ行く。
周恩来がよく来た店だという。静かな室内では、ゆっくり2時間をかけて次のような中華風フランス料理のコースが登場した。
1.エビのカクテル(小エビと卵をマヨネーズとケチャップで味付けしている)
2.タマネギのスープ (なぜか量が非常に少ない)
3.ステーキ(最初から肉は切り分けてある。辛いタレ。赤カブの酢漬けとフライドポテトがつく)
4.マッシュルームとチキン(タケノコとチキンの中華料理)
5.アスパラガス(缶詰のアスパラガスが7本並ぶ)
6.スフレ(温かい巨大なお菓子)
7.果物(パイナップル、ミカン、レイシ)
8.コーヒー
冷たい珠江ビール(缶)がうまかった。サービス料込みで59.2元(2370円)を払う。満足して店を出たが初日からかなりの散財となった。
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上海は庶民の街だ。普段着につっかけの雰囲気はどこか大阪に似ている。自転車は通り一面に溢れ、赤い小旗を持った半ズボンの老人が懸命に交通整理をしている。バスの運転手は女性である。なるほど国民全員が労働する、ここは社会主義国だ。商店に入り買いたい物を言うと、「メイヨー(ない)」とぶっきらぼうである。「その棚にあるじゃないか」と言うと、黙って物を取ってよこす。つり銭は飛んでくる。ところが自由市場へ行ってみると人々は生き生きと商売に熱中している。これは資本主義の雰囲気である。物乞いも精力的に歩き回っている。
7月25日夕刻。夜行列車の出発まで時間があるのでぶらぶら街を歩いていると、高校で物理を教えているという先生が話しかけて来た。古い建物の二階が彼の住居であった。先生と息子用、そして奥さんと母親用の二部屋である。台所は三家族共用だという。これが上海の一般的な住宅事情なのだろうか。
先生は英語で次のような話をした。「生徒は物理が理解できない。女子生徒は全くだめである」「今は夏休みで学校へ行かなくてもいい。毎日昼寝と散歩をして過ごす。特に研修をする必要はない」「月給は102元である」「中国人は平等か?・・・・ううむ。一部の中国人は金持ちじゃないかと思う」
「ALL THE PEOPLE DO NOT LIKE WAR」
上海から青海省へ。長距離列車の旅
上海発23時、西寧行きの軟臥(1等寝台)車両は四人用客室が四室付いていた。一車両にわずか16人の乗客である。出発前から、乗客は窓を開けてあらゆる不用品を捨てている。中国流の清掃術は学生時代の寮を思い出した。車掌は青い制服制帽のおねえさんだ。漢人ではなさそうである。寝台は上段の席である。身体を横にすると毛布が強烈なニラのにおいを発散している。ここは、安眠のため持参した寝袋カバーを出して寝ることにする。
午前6時。目を覚ますと列車はデルタ地帯を走っているようだ。一面の畑と河と沼。蒸気機関車が走っている。売りに来た0.8元(32円)の弁当を買う。飯の上にピーマンとソーセージが乗っている。うまくない。
同じ客室の人は、「上海石油商品応用研究所」の陳堅さん(女性)。この人は朝大きなスイカを一個まるまる食べていた。「蘭州市鉄道部第一勘測設計院」の李小東さんは技師。来中した岡山市職員の日本語通訳呉小現さん。岡山市と洛陽市は姉妹都市だそうだ。軟臥車両にいる乗客はふつうの中国人ではないようだ。
列車は次第に乾燥した穀倉地帯に入る。人民服を着た人達がレンガ造りの家の外へ出て来てしゃがみ、どんぶりを抱えて朝飯を食っている。停車した駅のプラットフォームに降りてみる。危うく我が列車から落下した人糞を踏みそうになった。窓を開けるとコレが飛んでくるそうだから要注意だ。
午後9時やっとあたりは暗くなり長い一日が終わる。食堂車へ行くと、中に入れない。列車で働く従業員達が食事をしている。彼らが終わってから乗客が利用するのである。
深夜、大きな駅に列車が停車しているらしい。西安だろうか。
二日目の朝。暗いうちから洗面所は混んでいる。足を洗う輩もいる。そのうち水道栓からは一滴の水も出なくなった。天水に着く。標高が高くひんやりした山間の駅だ。長袖のシャツを出して着る。車掌のおねえさんも長袖に替えた。視界からは緑色が消え、今は、泥河と荒涼とした山稜が続く黄土地帯である。トンネルが多い。
食堂車へ行く。昨日の朝と同じ弁当を食べる。食堂で食べると料金は10角(4円)だけ高い。赤十字の階級章をつけた男が、派手なシャツを着た息子と食事をしていた。朝から二人の前には数皿の料理が並んでいる。この食堂車は従業員と特権階級の乗客のためにあるようだ。窓外に見えるのは熟れた麦畑と黄色い菜の花のじゅうたん。収穫を終えた人達。一本の鍬を振り上げて大地を耕す人達。何千年も続く人々の営み。
蘭州駅でジーゼル機関車は蒸気機関車に替わった。李さんと陳さんが降りる。プラットホームに下りて白蘭瓜を買う。名産らしくうまい瓜である。列車は黄河に沿って走る。荒涼とした風景は変わらない。時々水際に木が現れるだけで緑はない。人と黄河の共存してきた長い歴史を考える。土の家。レンガの家。プラタナスの街の通り。人民服と人民帽。馬やラクダの大群が移動している。
西寧に到着。
午後9時。日没前に列車は終着駅の西寧に到着した。走行距離2403km。46時間の列車の旅であった。西寧賓館という古い建物に入る。一泊7元(280円)である。門を出入りするたびに門番に立っている男が「リョガエ」と大声で言う。両替をしないか?と言うつもりなのだろう。
西寧賓館の同室は桜井君(東京)と東京外大の女子学生二人である。桜井君は長身のやさしい青年である。みんなラサからのカトマンズ入りを目指している。
長距離バスターミナルでゴルムド行きの切符を買った。783km。料金21.3元(850円)である。途中都蘭で一泊し二日間かかる。「日本人か?」と聞くので「そうだ」と答えると、最前列の2番の座席をくれた。眺めの良い特等席だ。
西寧は青海省の省都である。「パンダの青海省」という知識しかないのだが、ここまで来るともう漢人の世界ではない。考えてみると広大な中国領土で漢人が住んでいるのはごく一部の地域に過ぎない。
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西寧の男達は白い小さな回教徒の帽子をちょこんとかぶっている。結婚した女達は黒いベール姿である。チベット人たちもいる。彼らは黒い着物の様な服を着て赤や青の飾りが鮮やかだ。西寧に住む人達にとって外国人はまだ珍しい存在であるらしい。珍しそうにこちらを見ている。
街の全てが乾燥しきった土色をしている。街路に並ぶヤナギの樹は生命を象徴している。ここでは植物は人々の生活を癒す貴重な存在である。
午後は昼寝の後で涼しくなった街に出てみた。空気が乾燥している。コスモスや立ち葵の赤やピンクの花が鮮やかである。
人々はゆっくりと通りを往き来する。上海の人混みの中で生き抜く人達と違う穏やかさを感じる。
夜間中学があった。窓から覗くと生徒たちが熱心に授業を受けていた。
映画館に入る。料金0.35元(14円)。イタリア映画なのでちょっとがっかりする。客の9割は男で村の若い衆といったところだ。パンタロンにスケスケの靴下とハイヒールで決めている。頭には人民帽。フィルムが切れると館内をどよめきと口笛が拡がる。映画の筋は結局何のことやらわからなかった。
食堂を探す。パンや麺、ギョウザの店が多い。野菜はあまり収穫できないらしく量が少ない。テーブルに置いてある岩塩をなめてみる。渋く酸っぱい味がする。
やさしい笑顔のおばさんがいる屋台に入り雑炊を食べた。ブドウを買う。種があり酸っぱいが正真正銘これはシルクロードのブドウである。
色々な商売をする人がいる。体重計と身長計を置いたおばさん。獣の皮を売る店。ヨーグルト屋。焼きイモ屋。貸本屋は、その場で読んでしまわなければならない。靴の修理屋。郵便局の前には代書屋。
西寧〜ゴルムド〜ラサへ。長距離バスの旅
ゴルムド行きは小さな箱型のバスだった。満席である。8時半西寧の街を出る。青海高原はナノハナのじゅうたんが拡がり次第に青い草原へと変わっていく。色々な家畜がいる。馬。牛。羊。ヤギ。ラクダ。ヤク。
青海湖はその名の通り鮮やかな青色をした海のようだ。ナノハナの黄色は青海湖の青色によく映える。次第に水が無くなると植物の姿が減り、バスは半砂漠地帯へ、さらに砂漠地帯へと入った。中央アジアへ来たのだ。道路は一直線に伸びている。電信柱の列も平行してどこまでも一直線。
突然バスは大平原の真中でパンクをした。運転手はきびきびとタイヤを交換し始める。王貞治が無精ひげを伸ばしたような顔つきの、頼もしい青年である。
乗客は狭いバスから出て休憩する。
都蘭に19:20着く。乗客は全員公共宿舎に泊まるよう指示される。街に出て夕食を食べる。食事の支払いに外国人用兌換券を出しても受け取ろうとしない。人民元で払えという。ここはまだ外国人があまり来ない所のようだ。
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街の周囲を囲むけわしい岩山に残照が厳しく光っている。歩いていると小川があり、水が流れていて、子供たちと母親が涼んでいた。写真を撮らせてもらう。自分たちの家に寄れといわれて土壁の中にある邸に入ってみると、そこは花で溢れかえっていた。都蘭の冬は10月から雪が降り10cmから20cmになると言う。翌朝、雨の中を出発した。朝食抜きである。かなり高い雪の山が見えた。バスはツァイダム盆地へと降りて行く。地平線まではここも一直線である。遊牧民のテントがなくなり木も草もない。電信柱もない。こんな所でも時々バスは停まり降りてゆく人がいる。人家は見えないのに、一体どんな所に住んでいるのか不思議だ。砂漠の中に突然、諾木洪という町が現れた。塩からい汁にパンを浸けて昼食を食べる。ここでも水のある所には人は住んでいる。町は白楊木やナノハナが豊かに植わっていた。
ゴルムドに着く。
16時到着。砂漠の中につくられた新興の町のようだ。埃が舞い、どこかすさんだ雰囲気の街である。まずはバスの切符売り場に行く。知り合いの琉球大学生に会った。彼の話では朝8時半にラサ行きの切符を売り出す。彼は7時から並んだが切符を買うのは10数番だった。8時に並ぶと切符は買えないだろうという。売り場のドアが開いたら死に物狂いで突進すべし。バスは2台出るという。作戦として切符売り場向かいにある「西蔵自治区交通局格爾木運輸公司」に泊まることにする。5人部屋一泊5元(200円)。食事は八宝飯と魚香肉糸で4元(160円)。久しぶりに洗濯をする。
切符を手に入れる戦闘。
8月1日。5時過ぎ起床。6時前に切符売り場へ行く。既に暗闇に6,7人が並んでいる。3人の白人がやって来て並んだ。それからの2時間半は、後から来て堂々と列を無視して割り込む中国人たちとの非難の応酬であった。そして8時半ドアが開く。どっとなだれ込みアメリカンフットボールさながらの戦闘が始まる。中国語・英語・日本語が飛び交う。しかし、2つと聞いていた窓口は1つしか開いていない。係員は切符をなかなか売ろうとしない。そのうちに外国人のパスポートを集め始めた。その結果は、翌日出発の切符を買うことができなかった。列の後ろにいた香港の学生たちは切符を手に入れていた。彼らは裏で動いたのだろう。6時前から並んだというのに翌々日出発の切符である。戦闘は終了したがあまりの馬鹿らしさに腹もたたない。
ゴルムド周辺の山に雪が降った。街で防寒用上着を17元(680円)で買う。型はダサいが、天然の動物繊維らしくとても暖かい。ろうそくも買う。ゴム輪やポリ袋・懐中電灯・トイレットペーパー。これから先、貴重品となるはずだ。 格爾木飯店で桜井君に再会した。京大生の末次君・山野さん(奈良出身)・レイモンド君(アフリカ・シェラレオンの留学生。山野さんの友人)も知り合いになった。みんな旅慣れた人たちだ。ネパールから来たフランス人は、ネパール側の道路崩壊で国境越えに5日かかったと言う。しかし何とか越えられるらしい。
ラサ行きのバスは2台の日本車である。1台は中国人用。1台は外国人用。中国人と外国人とを隔離している。6時前ゴルムド出発。8時太陽が出る。さっそく道路が決壊している。バスは大周りの経路で見事に脱出に成功すると車内に拍手がおこる。脱出し損ねてエンジンから炎を吹いている中国製トラック。雪が降る。揚子江第一橋で昼食の休憩がある。このあたりは長江の源流である。食堂の箸立てにびっしりと蝿が停まっている。食事の前にまずは手と箸を洗わなければならない。飯とキノコの炒め物。食事の値段が高くなってきた。
高山病
いつの間にか頭痛が始まっている。これが高山病なのだろうか。青海省とチベットの境界にあるタンラ峠を超え、ついにチベットへ入る。標高5072m。バスは高度を下げ、安多アムド19:35着。標高4800m。乗客は全員兵舎のような建物に入る。ここからの眺望は雄大である。しかし景色を楽しむ気持ちのゆとりは今ない。誰もかれも虫の息である。夜に入っても頭痛は続き、おまけに何とはなしに呼吸困難を感じる。長い眠れぬ夜が続いた。ここでもしも病気になれば一体どうなるのだろうか。翌朝6時バスは出発する。晴れていると思うといきなり土砂降りの雨と、天候は激しく変化する。高山病と寝不足のためバスの中はしんとして話をする者もいない。バスは高度を下げてゆき2時間もうとうとしている間に乗客はみんな生気を取り戻す。窓外の放牧風景はチベット高原だ。バスの中に葉乗客の賑やかさが戻って来た。チベット人の街に休憩停車する。店でチャーを飲む。
ラサに到着!
バスは快適に走り続け、やがて樹木が現れ始めると菜の花と青い麦穂の向こうにラサの街が見えてきた。バスの左手前には写真で見たポタラ宮殿が迫る。
ラサは思ったより小さな街である。壁を白く塗った人家が並んでいる。バスを降りるとおじさんがいて1人1元で、荷物を運んでくれるという。おじさんのがらがら曳く大八車についてYak Hotelへ行く。宿泊客の大部分は白人バックパッカ―である。花に溢れた中庭で昼寝をしたりビールを飲んだり話したりとラサの5日間を過ごした。ラサの人々にとって、はるばるやって来た外国人の一挙手一投足は興味深いもののようである。彼らはいつも我々を観察していて、親切であろうとする。明治開国のころの日本もかくありしやと思わせる。 国境の町ニャラムへのバス乗車券は簡単に買えた。外国人料金で82元(3280円)である。次にネパール領事館で入国ビザを申請する(料金45元 1800円)。
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ラサの標高は3658m、富士山とほぼ同じである。しかし、高山病の兆候はあの苦しい峠越えの夜以来全くなくなった。高度順応がうまくできたようである。
チベット人が尊崇するダライ・ラマ14世が住んでいたポタラ宮殿は山の斜面にそびえたつ巨大な城郭であった。宮殿には1000の部屋があるという。
1949年、中華人民共和国はチベットを自領と主張し侵攻を始めた。その後動乱が起き、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。京都の学生時代、書店で「チベット解放」の写真集を見た記憶がある。今も印象に残るのは、白い高峰を背景に行進する解放軍兵士である。日本共産党関連の出版物だったように思う。
今は主を失った巨大な宮殿の中に入る。暗い建物の中でバターの燈明のあかりが揺れている。小さな子供の坊さんが一人お経を読んでいた。屋上はラサの街が一望できる。聖地ジョカン寺(大昭寺)は7世紀に創建された吐蕃時代の寺院である。遠方からやって来た巡礼たちは、正門前で五体投地を繰り返している。何世紀にもわたり人々が体を投げ出した石畳は磨かれてつるつるになっている。雨の中に薬草を焼く煙が登る。寺の中は、光に浮かぶ金色の仏たちと人々が唱える経文と鳴り渡る鐘の音が交響する。
バルコン(八角街)はジョカン寺の周囲をまわる道である。時計回りに人々はバルコンを廻る。数珠を握り「オンマニペメフム(蓮華にある宝珠に幸いあれ)」を唱えマニ車を廻しながら。ある人は五体投地を繰り返しシャクトリムシのように進んでゆく。ラサ到着の喜びに誇らしげな表情をみせる家族づれは、はるばると一体どこから旅をしてきたのだろう。
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バルコンは巨大な市場でもある。野菜や果物、衣類。さお秤でバターを売る男。獣の毛皮をかついだ男。青い孔雀石や金属の装身具を売る人。歌を歌う人の周りでは楽しげに人々が取り囲む。チベット風帽子。人民帽。西洋スタイルのつばの大きな帽子。
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チベット人の太い骨格。何でも噛み砕きそうな丈夫な歯。日焼けした精悍な顔。自然にこぼれる笑顔に思わずこちらも解放される。寒い夜を地べたに寝て過ごしたという若い僧は一体どこで出会ったのだったか。
かれらは、長い袖のついたどてらのような物を着て帯を締めている。男はズボン、女は腰巻である。自分の髪に赤や青の毛糸を混ぜて結う。長靴をはく。宝石や石のネックレスを身につけている。
旅行者からは、様々なネパール越えの情報が入る。「ニャラムからジャンムーまでは道路事情が悪く30km歩かなければならない」「十数人でトラックをヒッチしたが一人6元だった」「カトマンズから国境まで2日かかった。3時間バスに乗って後は徒歩しかない」等々。
気に入った孔雀石のネックレスを買うことにした。昨日はおやじが70元だといっていた。今日はおばさんがいて60元だという。午後行くとおやじがいて75元である。結局70元(人民元)で買ったのだが、彼らはなかなかの商売遣り手だ。多分ぼられていると思う。ラサでは外国人旅行者用の外貨兌換幣100元が人民元150元と交換出来るので、つまりは46元(1840円)で買ったことになるのだけれど。
アフリカ人のレイノルド君を見る人々の表情は、彼の肌の色への驚きと共に蔑みも含まれるのではないか。彼は、ゴルムドで初めて会ったときの快活さを、最近は失ってしまい喋らなくなった。
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貸し自転車でセラ寺へ行く。巨岩には彩色された仏画が描いてあった。午後はダライラマの夏の宮殿ノブルリンカへ行く。バラと立ち葵の咲く明るい夏の宮殿である。展示された西洋式トイレとダライラマが結びつかずおかしかった。
ラサ川で川船に乗る。コワというヤクの皮で出来た船である。川辺に陽よけのテントがいくつも張ってあり、ここでくつろぐのは漢人達であった。英語の出来るおばさんの話に漢人がチベット人を相手にするときの差別意識を感じた。
ラサに住む漢人達は、中国政府の方針でチベット開発を進めているのだろう。彼らのチベット人に対する姿勢は、対等の立場ではない。一段下の動物程度に思う人が多いようだ。チベット開発は漢人の為にはなれ、チベット人とは無関係な事業ではあるまいか。明るくたくましく敬虔な心を持つチベット人を遅れた無能な人とみなしている。現在の漢人の進出はチベット人の自由と文化を奪っていると思わざるを得ない。夜になる。かんぬきでしっかりと門を閉じた屋外の暗闇は犬の支配する世界である。通りはお互いに咆えて往き来する犬の群れで埋め尽くされる。中世の京の街もかくやと思う。