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ラオスで生物を教える教員の質を上げたい(2):2009~2011生物実験指導ボランティア


国立ラオス大学

2010年4月パクセー教員養成短期大学から首都ビエンチャンの国立ラオス大学教育学部へ移った。理由は前に書いたが、教員養成短期大学の教官たち自身、自分達が受けた大学教育で実験を経験していないらしい。だから学生達への指導が出来ない。従って卒業後教員養成短期大学や中学・高校教員になる学生の学ぶラオス大学教育学部で実験教育を試みることが大切だと考えたからである。

ラオス大学は、市の北方、市バスやトゥクトゥク(乗合)で30分の所にある。1996年に創設された総合大学に3万人の学生が学ぶ。

ビエンチャン

理数科教官室からかなり離れた建物で講義が行われる。4名の生物教官は、中年のペットノイ、女性のブアパン、若い女性ソメポーン、そしてカウンターパートのケオパである。ペットノイとケオパの2人は離れの建物に居る。
理科実験室があるが、中は暗く使われている気配はない。実験室の後ろに、わずかの薬品と試験管十数本がある。顕微鏡は一台もない。黒板を支える支持環は外れ黒板は地面に落ちたままである。窓ガラスはなく金網越しに中庭と向かいの校舎が見え、雨の日の室内は一気に湿ける。蛇口はあるものの水は出ない。中庭のトイレの横に地面から覗く一本の水道管。ここから運んで来なければならない。

教育学部

995年、理学部から分離して教育学部が出来た。理学部には、電子天秤、顕微鏡をはじめ理化機材も多く、水道も使える。教育学部の方は外国からの援助や国の予算はほとんど来ていないようである。JICAも注目してこなかったといえる。教育学部の学内での存在感は薄く、実験教育などする余裕もないのだろう。ところが2011年からは、修士コースのみの教育学部になる予定だというから驚いてしまう。

ケオパは11年目である。40才。男性。日本の大学では講師あたりだろうか?タイのチェラロンコーン大学に2年間留学し修士号を持つ。留学を終えて帰国したとき学部長に実験機材の購入を要請したところ金がない!と一蹴されたという。今でも20000K(200円)の物品すら買ってくれない。彼は毎週「哺乳類学」1コマ「動物生理学」2コマ「脊椎動物学」2コマの専門科目を持ち、「英語」も教えている。

パクセーの教官たちに聴いたように学生の実験指導などは行われていなかった。今年、化学科を卒業したという若い教官は、在学中に一度だけ指示薬の実験があったと言う。

私がやるべき仕事

ラオス大学でやるべき仕事は明確である。
顕微鏡の導入」、「実験室に水が来るようにすること」、
「学生対象の生物実験講座を始めること」
以上の三点である。
床に落ちたままの黒板を引き上げて固定してもらった。
実験室にある切れたままの蛍光灯を付け替えるように何度頼んでも一向にやってくれない。業を煮やして、ある日「学部長の所へ行って、すぐ本人が付け替えに来るように言え」とケオパにいう。翌日蛍光灯は付け替えてあった。これだけの事にに2カ月もかかるのである。

顕微鏡輸送大作戦

生物の教官で、顕微鏡を使ったたことがあるのは2名である。あとの2名は経験がないという。顕微鏡は生物学の世界を拡げる必需品である。教官も学生も顕微鏡の世界を知り生物の魅力に触れることが大切である。
大阪の府立高校には古くなって廃棄する顕微鏡がある。電子顕微鏡の話しを聞きに行った大阪府教育センターにもあるらしい。これをラオスに持ってこれないか。日本の知人たちに相談をしてみる。問題は運ぶ方法である。ラオスへ来る旅行者に一人一台ずつ持たせて飛行機に乗ればよいという案がある。しかし空港でどう扱われるのか不安である。簡単に持ち込めない可能性がある。賄賂を請求されるかもしれない。直接ラオス大学あてに送るのはどうか。おそらく受けとるまでには、複雑な書類手続きに何人ものサインが必要となるだろう。社会主義国特有のお役所仕事はどこでも遅々として進まない。ICA事務所に出入りするビルマ人運送業者がいい知恵を授けてくれた。日本からラオスへ直接送るよりはタイへ送るのはどうかという。こちらは難しくないらしい。タイからラオスは陸続きである。車での国境超えは簡単だという。この案を事務所は了承し顕微鏡6台の運送費用75000円を出してくれることになった。
7月、大阪の自宅を出発した顕微鏡は、運送業者の手で、問題なくビエンチャンのアパートへ到着したのである。荷物の中身は「家畜用飼料」と書かれていた。さっそくラオス大学へ運ぶ。大学側は収納ロッカーを買ってくれた。こういうときは金がすぐ出てくる。さらに事務所は、新しい7台を購入してくれた。そして1台をビエンチャンにやって来た妻が日本から持ってきた。空港での入国時のトラブルはなかった。こうして全部で13台の顕微鏡が揃ったのである。

大阪から来た13台の顕微鏡

大阪府教育センターから来た2台の顕微鏡は立派なものである。「NIHON KOGAKU」と商標がある。現在の「ニコン」である。どっしり重たい収納用木箱に入って全体の重さは20kgもある。「昭和37年大阪府科学教育センター購入」というラベルが貼ってある。昭和37年から50年間使われ最近廃棄されたものだ。現在でもレンズの解像力はすばらしい。こんな立派なものを捨ててはいけない。

NIHON KOGAKUの商標がある顕微鏡。

顕微鏡は入ったものの、うす暗い実験室では顕微鏡を使うことができない。明るい光源が必要である。小型の蛍光燈を木片に固定して、机上に置く観察用の光源を作った。これで顕微鏡を実験室で使えるようになった。日本では少子化による学校の廃校が続いている。使われない実験器具や薬品を、何もない途上国の理科教育にもっと役立てられないだろうか。

ラオス大学の教官、ケオパ

カウンターパートのケオパに、大阪府の高校入学試験に使われた理科の問題を見てもらった。英訳にも問題があるかとは思うが、ケオパの正解率は生物で半分、物理は放棄、化学も難しい。地学は学習していないという。
深刻な問題である。彼に理科教育を指導する基礎学力がないらしいことだ。
鉄球は水に沈むのに、鉄の船が水に浮くのは「船内に空気があるからだ」という。氷の入った容器の外側に付く水滴がどこから来たのかを説明できない。
100kmを2時間で走るときの平均時速がわからない。
算数も大変だ。2/10×100=0.2×100=0.200 である。
実験に使う1%溶液が作れない。%の概念、割合というものがわからないのだ。
彼は「1%溶液100mlの作り方」をそのうち暗記してしまったが、1%溶液200mlとなると混乱してしまう。日本の小学校教科書を使って%を何度か教えてみたのだがどうしても理解できない。

これからどんな実験をしたいかとケオパに聞くと、ショウジョウバエの遺伝実験をしたいという。ショウジョウバエはラオスにもいるからという。しかし実験に使う純系のショウジョウバエではないことを知らないようだ。
彼は生物の専門科目の他に8コマの「英語」を教えている。これは一種の副業である。。ラオス大学にはアルファベットも満足に書けない学生がいるらしく、彼らのために英語の補講授業が開かれている。他の教官たちも別の仕事を持つことが多い。大学での講義の方が副業だったりする。学者として研究活動などしている人は少ないだろう。ケオパの妻も付属中学で理科を教えているが、授業の合間には、家で作ったアメを生徒に売っている。
ケオパは実験に興味はあるのだが、どこか逃げ腰でいいわけも多い。実験を予定した日の朝になっていきなりこんなことを言う。「実験に使うアオミドロが見つからない」「それは困る。もう一度探すべし。忙しければ他の教師にも頼むべし」「他の教師は講義中である。時間がない。このところ日が照らないために枯れたのだろう」「そんなはずはないと思う。大学構内の水たまりにあった」
1時間ほどすると大量のアオミドロを抱えて帰ってきた。
(実験準備は必ず前日までに済ませておくべし)

援助プロジェクトやワークショップへ出張すると手当が出る。ところが仕事量の多いボランティアのカウンターパートには何の報酬も出ない。彼はそれが不満である。任期終わりに、実験テキストを作り、そのラオ語訳をしてくれたのだが、彼はJICA事務所に対し、翻訳料を請求したそうだ。こうなると、誰が誰のためにテキストを作っているのかわからなくなってしまう。本末転倒だと思うが、援助慣れによりこんなこともおきるのだろう。
「脳の解剖」の実験を計画した。打ち合わせの段階で、ケオパは「視神経交差」を知らないと言う。これは大変だ。担当教員に教えてもらうよう言うと、担当教員は「動物生理学」を教えている自分だという。笑えない返事である。「本で調べたら?」「本がない」「仕事に必要な専門書くらい買えよ」「金がない。本は公共のカネで買うべきだ」という。

その他の大学教官たち

その内に他の教官たちの様子も次第に分かってきた。
同じ部屋にいるもう一人ペットノーイは50代の中堅教官である。彼は分子生物学を教えている。DNA分子模型を学生に作らせたときは、参加してくれた。しかし、彼が以前に作らせたDNA模型は「塩基-糖」の位置関係が正しくないようである。
カウンターパートではないので、我々の活動と距離を置いてあまり深く関わらないようにしている。「おれはもう何でも知っている。ワークショップに参加する必要はない」そうだ。しかし彼も1%溶液を作れないし、鉄の船がなぜ沈まないかを説明できない。

そんな中、学科長のサヤさんは救いであった。彼はドクター・サヤと呼ばれ一目置かれている。町に出ると卒業生が声をかけてくる「サヤ先生、お元気?」。
吹けば飛ぶような小柄な身体。50代だがまだ若い。良く動きエネルギッシュである。誰親切でやさしい。いつも眼鏡の向こうでいたずらっぽい眼が動く。彼のユーモアのセンスは人間に余裕があるからであろう。学科長として、ボランティア活動をよく理解し、適切なアドバイスと援助をくれた。最初、床に落ちた黒板を引きあげてくれたのも、水をためるタンクを買ったのもサヤさんである。自家用に小さなトラックを持っていて買い物も付き添ってくれる。ラオス大学の現状を客観的に見ている貴重な存在であろう。フランス語と英語に堪能である。ときどき辞書にあるような難しい英単語を使う。勿論、基礎的な理科知識を広く理解している。%がわかるのも彼だけかもしれない。彼は、若いころフランス・トゥールーズへ留学した体験がある。ビエンチャンに今もあるリセ(師範学校)を優秀な成績で卒業した後、彼は当時のラオス王国からフランスへ留学派遣された。しかし留学生活の半ばにしてラオスは王制から社会主義国へ変わり帰国しなければならなかった。彼の生い立ちや革命後のラオスなどについてもっと話を聞いておけばよかったと思う。

センチャンはやって来て言う。
「電子天秤が動くらしいので使いたい。プラグはどこにあるか?」使い方を知らない彼に学生指導は出来ない。直ったばかりの電子天秤がすぐ壊れるだろう。
「電子天秤を何に使うのか?」「学生に0.1Mー­ NaOHを作らせる」センチャンはNaOHのある場所を知らないし、おまけに誰が書いたのかNaOHと書くところを、NaClと書いてある。潮解性があることも知らないようだ。彼はメスフラスコを知らない。ビーカーで溶液を作るつもりだ。
「作った溶液で何をするのか」「1MーHClを中和したい」
「1Mは濃すぎる。10倍に薄めて中和する方がいいだろう」
中和を始めた学生たちはいくら溶液を加えても中和が終わらないと言う。
センチャンに聞く「1MーHClは自分で作ったのか?」
「自分では作っていない。店の人がそう言った」
1 Mの塩酸を売るはずはない。買うなら濃塩酸だ。12M位あるだろう。センチャンは学生に濃塩酸を0.1MーNaOHで中和させていたのである。大量に加えなければならない。自分で予備実験をしていないし、計算すればわかるはずだ。真面目に実験している学生たちはかわいそうである。いつの間にやらセンチャンは教室から消えている。

センチャンとは同じ化学の同僚でもあるサヤさんに話してみる。
「化学の教官同士でもっと話すべきではないか」
「うーん」とサヤさんは言葉に詰まる。「実は、誰も彼に自由にものが言えないわけがある」。サヤさんの話はこうだ。センチャンの妻は数理学科に3人いる管理職の一人である。おまけに、教育学部長はセンチャンを非常に有能な教官と思いこんでいるらしい。センチャンもタイのチェラロンコーン大学の修士である。例の「教授学」の論文を書いてもらった修士号である。現在も肩書きのため留学し、名目だけの修士を持つ教官は多い。しかしまだ若いセンチャンは、このまま自分をごまかしてラオス大学教官を続けるのだろうか。

ラオスにも、有能な人物はいるだろうと思う。しかし教育と別の仕事にまわされているのではないか。どうやら、現在のラオス大学は、多くのわけのわからない教官が、わけのわからないことを教えているように見える。教わる学生達の方もわけがわからないだろう。南部ラオスで始まったプロジェクトに参加している人の話では、その中心になる校長や指導教諭のうち、計算「60-30×2」を0と正しく出来た人は1割もいないそうだ。40~50代のラオス大学教官たちは、1975年の内戦が終わった時は5才~15才である。まともな教育を受けていない彼らが小・中学レベルの内容を理解出来ないのもそのせいだろう。こうした所にも戦争の影を見るのである。

ラオス大学での生物実験講座

ケオパが学生たちを指導する生物実験講座を開きたい。
その内容は、学生達が将来現場で使える「ラオスで出来る生物実験」である。過去のJICAプロジェクトの実験は、日本で考えられた教材である。従ってラオスの匂いがしない。ラオスに住んでいることを前面に出し、ここで見たもの、聞いたものを基にした教材を作りたい。

ケオパはこの講座の主旨を理解してくれたようだ。教育学部では初めての試みだとやる気を見せている。計画は、まず2010年9月から12月まで5年生11名を対象にする。わたしが指導をして、ケオパは補助役である。そして2回目は2011年2月から6月まで。3年生16名にケオパが指導する。わたしは補助役にまわる。そして2011年以後はケオパが一人で講座を続ける(続けることを期待する)。

オリエンテーション

まず5年生11名にオリエンテーションと称してこれから何をするかの話をした。学生たちはほとんど英語を理解しない。当方はラオス語を解さない。ケオパの通訳が必要である。学生達に次のルールを守るように言う。
1.講座(午後1時から2時半まで)の始まる前に、実験室の机を雑巾がけし、必要な材料・器具を準備する。
2.実験のできる服装で来る。ハイヒールや長い髪、伸ばした爪は良くない。
3.ゴミは分類して捨てる。
4.タンクの水は常に満タンにしておく。必要ならば汲んで来て補充する。
5.時間中は携帯電話を切る。
6.実験が終われば、使用したものを全て水洗し自然乾燥する。後片づけや掃除は女性の仕事ではない。男女平等である。

このオリエンテーションに5名もの学生が欠席していた。気ままに休んでもらうのは困る。最初が肝心と一人一人を呼び出して休んだ理由を聞いてみた。その結果は、病気2名。バイクの故障1名。姉の子どもの看病1名。帰省中1名であった。この効果だろうか、その後欠席する者はほとんどいなかった。
学生たちは協力的であり、素直である。放課後は掃除にやってくるようになった。

実験第1回目

学生たちは、自分の身体を動かして学ぶ実験、それも外国人の指導への興味もあったのだろう。早くから実験室へやって来て準備を始めた。
実験は「酵素」をテーマにした。
ペルオキシダーゼという過酸化水素を分解する酵素である。彼らは熱心に取り組んだ。しかし、終わった後で感じたのは、彼らが果たして触媒について知識を持っていただろうかという疑問である。日本での常識がここでも通用するとは言えない。乾電池の中にある黒い粉末(二酸化マンガン)と同じ働きをする酵素(ペルオキシダーゼ)が、動物のブタやニワトリの肝臓や、植物のニンジンやジャガイモにもあることが理解出来ただろうか。いきなりレベルの高い実験をやらせたのではないだろうか。2回目からは、次週の実験を話し学生達に相談をすると、実験材料を探してくれるようになった。ケオパも学生達と一緒に農業用水路でオオカナダモを集め、市場へ買い物に出かけてくれる。

毎週1回の実験講座

マーケットでブタの心臓を手に入れた。心臓の解剖をしたいと思う。他の学年からも見学にやってきた。まずプリントを配って「心臓の構造と血液の流れ」を復習する。赤ん坊の頭程もある心臓を天秤にのせて重さを測る。 約1Kgもある。

ブタの心臓を解剖するケオパ

昨日、本を読んであらかじめ解剖の手順は頭に入れてある。しかし心臓の解剖は初めてで緊張する。外科のヤブ医者が心臓手術に立ち会うようなものだ。切り始めた位置が少し外れているのに気が付き、軌道修正する。その後は何とかうまく進んで、左心房・左心室・右心房・右心室が見えて来る。心臓に出入りする血管に4本の塩ビ管を挿入すると、心臓の4つの部屋と血管の関係がよくわかる。学生はスケッチをする。解剖を終えたブタの心臓は学生達の胃袋に収まったようだ。

稲わらと水を熱してジュースを作る。この中でゾウリムシはさかんに繁殖する。実験室でいつでもゾウリムシを観察できるようになった。

顕微鏡でゾウリムシの構造と運動の様子を観察する。さらに、光、電気、酢酸、重力がゾウリムシの行動に影響する様子を観察した。
このようにして毎週一回の実験講座は続いた。ケオパも、学生たちも、私も一つ一つの事実を作りあげて行くことで、自信をつけ、充実感を持つようになっていった。

実験材料をさがす

ふとしたことで新しい実験材料を見つけることがあった。帰国送別会に出かけたタイ料理店の庭の石鉢に見なれない細い緑藻があった。写真で見たシャジクモに似ているようにも思える。少しだけいただいて持ち帰り、顕微鏡を覗いてみた。見事な原形質流動が見えるではないか。細胞の中身が一定方向に流れる様子はまさに「生命」である。いつまで見ていても見飽きない。
タラートサオはビエンチャンで最大の市場である。その一画に装身具の修理やメッキをする職人が集まっている。彼らは現代の錬金術師である。化学知識を勉強してはいないが、毎日、バーナーやるつぼを使いなれた職人たちだ。彼らの仕事を見るのは面白い。ただ、無造作に青酸ソーダの瓶などが置いてあったりしてびっくりする。青酸ソーダとは青酸カリのような薬品である。彼らはビエンチャン市内で塩酸・硫酸・硝酸・苛性ソーダが安く手に入るということを教えてくれた。

ラオス大学の学生達に日本の高校教材はレベルが高すぎるようだ。化学や物理、数学の基礎学力が無いためである。小中学校レベルで今は十分だと思う。基礎的な実験や観察をし、長さや重さ、時間を測定すること。スケッチやグラフ作成を、手を変え、品を変えて繰り返し身に付けさせることが必要だ。この国の人にはそうした体験が不足している。現職教員の研修会でのことだが、ツユクサの気孔を観察していた。「顕微鏡の視野に、気孔が何個あるか」と聞いたが誰も数えようとしない。「数えられない」と言ったり、「100個」といいかげんなことを言う。そこで「僕の場合は」と「134」などといい加減な数字を黒板に書くと、はじめてみんな数え始めるのである。算数が出来ないので実験をしても定量的な考察が出来ない。「2万キープの10%割り引きはいくらか」と聞くと、16名の学生で正解は6名である。これでは買い物も出来やしない。

卒業前の教育実習に行くという学生たちがやってきた。講座で作った紙のDNAモデルを大きく作りなおしたモデルを持っている。教育実習で子どもたちに見せるのだと張り切っている。彼らは今どうしているだろう。学生や子どもたちに教えているだろうか。実験をしているだろうか。

5年生の講座が終わった後12月から3年生の講座が始まった。今度はケオパが中心になって指導する番だ。

実験室に水が来た

話しは前後するが、実験室に水が来ないことは大問題であった。ラオス大学で仕事を初めて一週間目の4月26日。水が出るようにしてほしいと依頼すると、副学部長は「金が無いからどうしようもない!」「ラオスは現在SEAGAME(東南アジア競技大会)のための金が必要である」「水が来ないのは自分の責任ではない」などと聞く耳を持たない。
5月末、JICA事務所の所長が変わり新しい所長がラオス大学の視察にやってきた。水の話しをしてみると「井戸を掘るのはどうだろう」という。たのもしい所長である。所長が帰ったあと学部長と副学部長がやって来た。「水の件はどうなった?」と聞いてくるが、自分達で問題を解決する気はなさそうだ。うまく行けばJICAの援助を受けられると考えているようだ。そのくせ7月に学部長はJICA事務所では「雨期になったので水問題は解決している」と放言したようである。彼らは外国援助をいかに手にするか、それだけが仕事らしい。

雨季のラオス

雨季が始まり猛烈な土砂降りが続く。
水はいくらでも天から降ってくるが、室内は断水したままだ。ビエンチャンの町のすぐ傍を流れるメコン河の水を利用できない。トイレの横から運んだ水をサヤさんが買ったポリの大樽に入れて使うしかない。

所長は大学の副学長に会った際、水の件で教育学部長と話をするように要請してくれた。これで事態は動くかと思われた。しかし学部長は相変わらず、この件は自分の責任ではない。他の部門だと主張している。やる気が無いのか、大学の体制の問題なのか。自分の縄張りにこだわるだけで問題の解決策を考えない。この傾向は他の場面にも見られる。職場では毎週会議が開かれ、上からの指示を徹底しているようだ。全員(細胞)が一本の樹木の幹につながった組織図が壁に貼ってある。指令に忠実に働くことが強調される。しかし上が無能なら、有能な人材も力を発揮できないだろう。ラオス人が教科書を作ると、各人が書いた分担パートを寄せ集めただけのものになってしまうという。一冊の教科書全体をまとめる仕事は苦手なようである。やるべき人物がそれをやらないということか。

11月になり、やっと事務所の調整員、サヤさん、大学営繕部、水道局の話しあいが持たれ、水タンクをつくる方向で動き始めた。水道の仕事でラオスへ来ていた同僚のボランティアの話では、ビエンチャン市の水道管配置は滅茶苦茶らしい。ラオス大学の場合も、水道は各学部が勝手ばらばらに設置している。どことどこが連結しているか全体がわからない。大学付近の住人が勝手に大学の水道管につないで取水しているという話もある。

井戸のおかげで実験室に水が来るようになった

12月23日 工事が始まる。工夫が中庭につるはしで大きな穴を掘っている。その場所にコンクリート製で方形の給水タンクを作り始めた。
1月10日 給水タンクが完成した。しかしモーターがうまく作動しない。しばらく紆余曲折を重ねる。ある日業者がモーターの電源スイッチを付けに来たらしい。わざわざ隣室に電源スイッチを付けてしまう。
大学側が古い実験室の水道栓は全部交換するという約束だったのにやらない。またもや例の「金が無い!」である。そうかもしれないが約束は約束である。JICAの工事費用に較べわずかな額なのだが、こちらが言わないことには万事この調子である。
2月10日 やっと水道栓が新しものになった。
2月23日 隣室に付けた電源スイッチを、教官室に付け替えにやって来る。
これでとうとう水道栓をひねると水が来るようになった。しかし、この水はコンクリート製タンクを通ってくるせいで強いアルカリ性である。しかし、ほこりだらけの実験室は、いつでも拭き掃除が出来るようになった。うれしい。純水が必要な実験の場合はペットボトルの水を買えばいい。
実はもう一つおまけがあった。人の少ない休日に、完成したタンクの中で水浴びをする輩がいるらしい。錠を買って来てタンクの蓋が絶対開かないようにしなければならなかった。完成は、任務を終えて帰国する2ヶ月前の4月である。粘り勝ちであった。事務所の所長や調整員には大変お世話になった。

3.11

「宮城県沖。マグニチュード8.8。巨大地震」ニュースは瞬く間に日本人の間に拡がっていった。ふだんあまり見ていないTVやインターネットにかじりつく。アパートにあるTVは、BBCやCNNの他、中国やオーストラリア、香港のニュースもあるので、NHK一点の日本よりは情報豊富かもしれない。
3月13日から次々と原子力発電所の爆発が始まった。
妻からは、放射能は漏れていないらしいが、現地での避難が始まっていると連絡がある。西アフリカのセネガルにいる娘からは、原発の爆発をBBCの報道で知った。日本政府や東京電力、NHKは事故があった事実を発表しない。なぜ日本で起きていることがBBCニュースでしか得られないのかと言う。日本でいま何が起きているかよくわからない。
ホンジュラスのデリアやホルヘからもメールが届く。デリアは大阪にいる妻に、あまり危険ならばホンジュラスへ避難して来るよう言ってきたそうだ。
事態は日ごとに悪化している。日本政府も東電も情報を隠している。福島の住人は無視されている。この状況下、日本の人たちは生きる心地も無いだろう。
我々は集まって情報交換をした。東北電力にいたHさんが「原子力は決して安い電力といえない」と説明する。
NHKの番組は毎晩「専門家」と言われる人物が登場し、同じような話をする。汚泉水がタンクを超えそうになるといきなり担当者が大阪大学のYという教官に代わった。彼が「事態は良い方に向かっている」というのに驚いた。彼は東芝出身の「原発専門家」だそうな。また、東京のある女子大学名誉教授は、「人力を越えた災害とはどうしようもない」などとむにゃむにゃを繰り返す。
政治家や東電の醜悪さ、学者の無能ぶりを毎日見せつけられ、これが日本である。
しかしこうした機会はめったにやってこない。貴重な日々なのかもしれない。かって大学紛争の続い時代とも似ている。いつもは隠され目に触れないようにしてある日本の恥部が覗いている。
ラオスのTVも津波と原発の映像を繰り返す。貧しいラオスの人たちがカンパを集めている。日本人とわかると同情の眼差しが向けられる。世界中が注目している。黙って彼らはみている。彼らは冷静である。日本人はいまどのように見られているのか。
サヤさんは「日本は二度の原爆を経験したのに、なぜ原発を作ったのか」と聞いてくる。ケオパは「今でもまだ出てるんだろ?」という。強い放射線のことである。

終章

最後の実験講座があったのは6月16日。ケオパは3年生にニワトリの脳の解剖を指導した。生物科の教官たちの他、JICA事務所の所長と職員、ラオス大学の副学長、教育学部の副学部長が参観した。

終った後、16人の学生に一人一人『ラオス生物実験書』が渡され、講座をやり遂げた喜びを全員で味わった。ケオパと二人で作った英語とラオス語の実験書である。所長は実験書をパラパラとめくると「絵はみんな自筆ですね」と言う。「そうです。みんな実際にやったことだけを書いたのです」。所長はいい所を見てくれる。

学生達に講座の感想を聞くと、「実験をしながら生物を学ぶのは初めての体験でした」というものが多かった。言葉の重さをかみしめる。毎週この部屋で開かれたささやかな学習が、将来彼らに何を与えるだろうか。

最後の講義にはビエンチャンタイムズ紙(新聞)の取材があった。
帰国してその記事が送られてきた。内容はJICAからラオス大学に『ラオス生物実験書』が贈られたこと、大学側からはJICAに対して感謝状が渡されたことが書いてある。写真には私と副学長、JICA事務所所長が写っている。後ろの方にサヤさんの姿も見える。しかし肝心の学生たちとケオパへの取材は無かったし、写真にも彼らは一人も写っていなかったのである。一体だれが主人公なのだろうか。これが社会主義国ラオスの公的儀礼というものなのか。JICA事務所はどう考えるのだろう。

ケオパが「Ida!」と嬉しそうに私を呼んでいる。校庭の水たまりで見つけた、孵化したてのオタマジャクシを顕微鏡で覗いている。透き通った小さな命を猛烈な速さで血液が流れているのを見た。


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