
ホンジュラスの子ども博物館で働く(2005~2007年JICAシニアボランティア)
JICAボランティアとしてサンペドロスーラ市へ
ペケニョスーラ子供博物館
2005年12月からの2年間を、私は中央アメリカの小国ホンジュラスのサンペドロスーラ市で過ごした。市北西部の、往還から少し入ったオルキディア・ブランカ( 白い蘭 ) 通りに面したアパートは、閑静な住宅街の中にあった。家主の医者が広い敷地に建てたもので二階の半分が私の住まいである。
夜明けを待てない小鳥たちのさえずりが窓外の樹々の間で始まると、屋根瓦の上を野鳩がククウ、ククウと歩きまわる。私は朝食にパンを焼き、コーヒーを入れ、冷蔵庫からヨーグルトと果物を取り出す。
7時45分。門の外に車の停まる気配がして、二階に向かってデリアが叫ぶ。
「Shigeo san !」。彼女は私のカウンターパート(ボランティア活動の現地相手役)である。「Hola ! Buenos dias !」(やあ!おはよう!)「Buenos dias !」(おはよう!)。毎日はいつもこのように始まるのだった。

私がJICAボランティアとして派遣されたのは「子供博物館」である。正式な名前を「ペケニョスーラ子供博物館」という。子供たちが自然や社会について学習する場として、2000年に開館した体験型博物館である。まだ完成の途上で、私の任務は「自然」や「環境」の指導をすることであった。2003年、ここに日本の援助でプラネタリウムが寄贈された。ドームの直径10mと小さなものだが、当時の中米では初めてのプラネタリウムであった。ドーム型屋根のついた縦長の4階建て別館、その最上階にプラネタリウムはある。

博物館はサンペドロスーラ市の管轄下にあり、運営は理事会が関わっている。職員は11名。女性館長はアメリカ合衆国アリゾナ大学で文化人類学を学んだエラルディーナ。教育担当のデリアは私のカウンターパートでもある。ガイド役には若いクリスチャンとオシリス。経理係のマルビン。4名の技師。そして2名の掃除婦である。誰もが役目に誇りを持ち、毎日ここへやって来る小さな来館者たちのあげる歓声の中を和気あいあいと動きまわる。その様子は田舎まわりの旅役者一座を見るようである。

私は12人目の新しい館員として迎えられたようだ。8時に出勤し5時までを一緒に過ごす。出前の昼飯はみんなと食べる。はじめに感じた外国人としての不安や戸惑いはたちまち消えてしまった。

博物館にやって来るのは、幼稚園から小学校・中学校・高等学校の子ども達である。教員や母親が付き添いアメリカ合衆国払い下げの黄色いスクールバスでやって来る。子ども達は、まず、エレベーターで別館のプラネタリウムに入る。クリスチャンとオシリスが迎える。クリスチャンは笑みを絶やさない好青年、オシリスは小柄な、妖精のようなくりくり眼の女性である。やがて、ドームの太陽が沈み、黄昏の空に星が現れ、いつしか漆黒の暗闇となる。見渡す限りの満天の星の下でクリスチャンの声がどこからか聞こえてくる。星座や惑星の説明をやり、最後はロケットに乗って地球を出発し月面に着陸する。

プラネタリウムが終わると子どもたちは本館へ移動してグループ毎にデリアやオシリス、クリスチャンの案内で展示場をまわる。新しく出来た「森」の展示の前に子どもたちが座っている。「森にはどんな生き物が住んでいるかな」。子供たちは、生き物を見つけ一斉にその名を叫び始める。生き物と空気や土や水のこと、環境へと話は展開して行く。隣にあるのは「水の循環」の展示である。ホンジュラスは飲み水に不自由する人が多い。自然は今も人による管理を拒否し、毎年大雨の後には洪水が来る。子供たちの未来は明るくなければならない。

「大きなシャボン玉」をつくる実験コーナーでは、シャボン玉の中に入った仲間をみんなで拍手大かっさいしている。
私は早速、簡単な演示実験を紹介した。まず浮沈子(ふちんし)である。水の入ったペットボトルに浮沈子を浮かせる。浮沈子は小さなプラスチックの醤油入れである。ペットボトルを押さえると浮沈子は沈んで行く。力を抜くと浮きあがる。浮沈子は命令どおり浮いたり沈んだりする。子供も大人もすっかり考え込んでしまう。もう一つは水ロケットである。日本から持参した部品と古チューブで作ったペットボトルのロケットは、自転車ポンプで空気を入れた後、弁を緩めると、水を吹きだしながら空へ向かって勢いよく飛んで行く。興奮した子供達は一斉に囃し出す。「オトラ!オトラ!(もう一度!もう一度!)」。
2時間の見学を済ませた子どもたちは、持参の弁当を開き、売店のアイスクリームを楽しんで、あの黄色いバスで帰って行く。博物館へ来るのは、ほとんど私立学校の制服を着た子供達である。公立学校の子ども達にとって入場料1人20L(120円)は負担なのだろうか。※当時ホンジュラス通貨1レンピーラ(L)は約6円であった

サンペドロスーラ市の91校の学校を見る
サンペドロスーラはホンジュラス二番目の都市、人口は70数万人である。丁度、首都テグシガルパに対しては東京・大阪の関係といえるだろう。
これから2年間、私はここで何をすべきか、館長のエラルディーナ、カウンターパートのデリアと3人で話しあった。要請のあった展示内容の指導の他に、現職教員を対象にしてワークショップを開き、見近な材料を使って出来る理科実験を教えてほしいという。例えば浮沈子や水ロケットである。日本の理科教育はこの分野では優れていると思う。私もぜひやってみたい。しかしまず初めに、この眼でホンジュラスの教育の実情を知っておきたい。そのため市内の学校をたくさん見たいと言った。さっそく市からは車を出してくれた。

ペットボトルの浮沈子を抱えたオシリスと2人、幼稚園から高校まで、手当たり次第に色々な学校を訪問してまわった。まずオシリスが浮沈子を見せて、子供博物館の紹介をする。開講予定の理科実験ワークショップの招待状を教員たちに渡す。私は理科設備の実情を見たり、授業参観をする。スペイン語はわからなくても、授業の雰囲気、生徒や教員の表情にはどこの国にも共通のものがある。訪問を断わる学校もあったが、多くは私達の訪問を好意的に受け入れてくれた。
一部の富裕層、大多数の貧困層
美しい街路樹があり、花に囲まれた豪邸の並ぶ地域の向こうには小さな川を隔て、古いトタン板に囲まれたみすぼらしい家がひしめいていた。そのあまりに大きな格差に、私の頭をいきなり殴りつけられた気がした。

富裕層の住む地域には、私立学校や宗教系の学校が多い。日本のレベルに決して劣らない実験室を持ち、高度な学習をする高校もある。一方、公立学校はどこへ行っても貧弱であり予算もなさそうだ。公立学校の教員は給料の遅配が多く、ストライキも頻繁にあるという。そのためか、授業時間は不足勝ちで、物理の学習(なぜかこの国の理科教科書は物理分野を最後に扱う)が十分出来ないという。生徒の出入りが不自由なほど机を詰め込んだ教室もある。紙きれが風に舞う中庭で、ヒステリックに生徒をののしる女性教員がいた。教員の実験研修所にある古い実験器具は長い間手を触れた形跡がなかった。
1821年独立したホンジュラスは、今でも小学校を終える国民は全体の6割でしかいない。富裕層は恵まれた教育環境で学ぶ一方で、大多数の貧困層は満足な基礎教育すら受けていない現状のようだ。91校の学校訪問を済ませて見えて来たのはホンジュラスの縮図である。この国には経済的な中間層が少なく、一部の富裕層と大部分の貧困層の国である。そして、貧困は教育だけでなく国のあらゆる面をむしばんでいると思われる。このときの学校訪問は、私の2年間の活動に非常に参考となる貴重な体験であった。
混乱の始まり
家主の医者は温厚な紳士である。ときどき姿を見かけると「どうかね。うまく行ってるかね」と声をかけて来る。私の部屋にある大きなオーブンは使っていないと言うと「あれを使うと、色んな菓子が焼けるんだ」と残念そうである。彼はお菓子作りが趣味なのである。日本のカリン糖をあげたときは「とても素晴らしい菓子だ。一体どうやって作るのだろう」としきりに感心していた。
アパートから博物館までは歩くには少々長すぎる距離である。JICA事務所は、町の治安が悪いため、タクシーの往来を言う。デリアと相談してタクシーが定刻に来るようにした。来てもらう運転手はいかにもラテンアメリカ人といった、調子のいいおじさんである。全身で驚きを表現する。運転中も、ことある毎に肩をすぼめハンドルを握る両手を離すのでひやひやする。ある朝、渋滞で停車していると、隣のトラックに一人の黒人が乗っていた。私に気がつくと「チーノ。チーノ」とはやし始めた。「チーノ」というのは「中国人」の蔑称である。運転手は「アフリカーノと言ってみろ」と小声で囁く。「チーノ」の連発に私が「アフリカーノ」と答えてみると黒人は顔色を変えて「ノーアフリカーノ」と言うのだった。「アフリカーノ」もまた蔑称である。ここにも、人が差別し、差別される構造が容易に出上がる。
ともあれ、出だしは好調であった。明るくこぎれいなアパートと職場にも恵まれ、まずは、順風を帆に受けて航海が始まったのである。
首都テグシガルパに「チミニケ」という名前の子ども博物館がある。是非見ておく必要がある。1月首都へ出たついでに寄ってみた。「チミニケ」はアメリカ合衆国やホンジュラスの財界から潤沢な資金援助があるという。機材も豊かにあるし、展示内容も広い範囲にわっている。子どもたちが楽しく遊べる場所も多い。
我ら「ペケニョスーラ博物館」の将来像を描いてみる。「チミニケ」と同じものを作る必要はないだろう。「チミニケ」と一味もふた味も違う「手作りとホスピタリティー」を大切にする博物館を作りたい。公立学校の子どもたちもやって来る博物館、市民や教員、大学生の学習の場にもなる博物館でありたい。

サンペドロスーラへ来てまだ日の浅い1月30日の朝のこと。
後で考えると、この日は、その後長く続く博物館の混乱の始まった日であった。
2005年末にあったホンジュラス大統領選挙と同時に、サンペドロスーラ市長選挙もあったのだが、その選挙結果が具体的な形を取り始めたのである。
この朝突然、我々は、市の人事異動によって職員11名のうちエラルディーナ館長、技師、掃除婦たち6名が解雇された事を知った。館の空気は一変した。
職員6名が解雇される
「選挙の度にホンジュラスはこんなことを繰り返す」デリアは涙を流した。後任人事は発表されず、その日から、残った5名で連日やって来る来館者を相手し、全ての仕事をこなすことになった。私もモッブで広い大ホールの掃除を手伝うと、手に豆が出来た。デリアは便器にこびりついた汚れを黙って素手で洗っている。「後で洗えばいい」と言う。不敵な精神を見たように思った。

200名が来館した日、疲労困憊した我々は喋る気力を無くしていた。
開催予定の理科実験ワークショップの方は、何とか1回目の「電流と磁石」を3月に開いた。2日間で44名の参加があった。館長の仕事までやるはめになったデリアは、スペイン語を話せない私のかわりに声を枯らして実験の説明をした。どんな相手にも丁寧に接する彼女は決して手を抜かない。ワークショップが終わり二人切りになった時、彼女は私にこう言った「今日は私ばかりが説明をしなければならなかった。こんなワークショップはもうこりごりだ」。私が英語を話すとデリアが疲れ、デリアがスペイン語を話すと私が疲れるのである。デリアの笑顔が次第に見られなくなった。
「ワークショップは、デリアの助けなしにできない」「私は今、仕事が多くて、あなたの相手ばかりはできない。頭が狂いそうだ」
400人の来館者があった日、経理係のマルビンがどこかへ消えてしまった。残った3人は疲れと怒りに館を早々と閉めて帰ってしまった。4月になると、デリアは持病の胆石が痛みだした。過労と腹痛のため、ともすれば感情的になるデリアに、私はしばしば腹をたてた。「日本では、こんな馬鹿なことは起きない。ワークショップはやめた方がいい」「日本、日本と言うけれど、ここは第三世界なのよ。何かと日本を言うのはやめなさい」。互いに睨みあうものの、しばらくすると笑い出し「私達はやはり笑っている方が似会う」と彼女は言うのだった。

地元の新聞が紹介してくれたせいか、2回目のワークショップは50名の参加を見た。スペイン語で書いたテキストを読みながら指導してみる。終わると、デリアはほめてくれた。「スペイン語が前より良くなった」「もっとスペイン語で話しなさい。博物館へ来る先生も子どもも英語は全然わからないのよ」。教育実習の大学生たちも私の発音を直してくれ、館員や学生達がスペイン語で私に話しかける回数が増えるようになった。
ニュースが入って来た。新しい財団理事長になる予定の新市長夫人が就任を断ったと言う。理事長には誰がなるのだろう。
博物館乗っとり
7月末、新しい財団理事長のスー・ジェンという女性とその取り巻きが、博物館に現れた。スー・ジェンは中国系ホンジュラス人である。新館長にはホセ・ルイスが赴任した。彼は初代の館長であった。半年前に解雇されたエラルディーナはとうとう帰って来なかった。人事にはすべて政治的な背景があるようだ。
8月に入り、デリアは実家のあるテグシガルパで胆石の手術をして、回復するとサンペドロスーラへ帰ってきた。 そのころこんなうわさが流れていた。
「スー・ジェンは、館員がこれまで、まともに働いて来なかったと言っている」
「スー・ジェンは館のメンバーを変えるらしい」
「スー・ジェンはデリアを嫌っている」
9月になると、新しく3名の女性が出入りするようになった。美容院経営者という、シャーリーという派手な人物が常駐する。あとの2名は電話とパソコンの横に座り、館内の動きをスー・ジェンに逐一報告してそうだ。いわゆる目付役である。シャーリーへスー・ジェンが色々と指示をしているらしい。新館長ホセ・ルイスは「ここには館長が二人も三人もいる」と嘆いている。
10月私は年に一度の健康診断のため日本に帰国し、11月サンペドロスーラへ戻った。たまたまスー・ジェンの家の近くを歩いていると、突然、彼女が家から出て来るのに会い驚いた。「博物館の部屋を替えたの。驚かないでね」と私に言う。
翌朝、出勤してみると全てが明らかになった。玄関のすぐ左側にある私の部屋にはシャーリーがすまし顔で座っていた。部屋の中にあった物は全て、私物に至るまで、技師たちのいる離れの一室に移されていた。新しい部屋にはエアコンもない。シャーリーに「予告もなしに部屋を勝手に替えるとはどういうことだ」と抗議すると「スー・ジェンの命令である」「文化の違いである」等という。
私の帰国中に、スー・ジェンは館員たちを前に「今後ここは教育を目的とはしない、楽しい遊園地的な博物館にする。教員や学生向けワークショップの計画も中止する」と宣言したそうだ。権力を握ったスー・ジェンは、あのテグシガルパの子ども博物館「チミニケ」の富裕層好みの派手さと華々しさを自分の目標と定めたようだ。解雇を恐れる職員たちは、誰ひとり反対しようとしなかった。スー・ジェンという人物は弱者や貧者に対する共感はない。激しい自己愛と、気に食わない者はたたき潰そうという心の持ち主のようだ。
数日後デリアは市役所に呼びだされた。暗くなって館に戻って来た彼女は落ち込んでいた。「とてもよくない話。私は解雇された。もうあなたと働くことはできない」。私の部屋を勝手に替えた件に加えて、デリアの突然の解雇は私が博物館にいる理由がこれで無くなったことを意味した。その途端、シャーリーのいる部屋のドアを力一杯蹴り飛ばす自分がいた。彼女は内側からドアに鍵をかけ何かを叫んでいた。この時のことを「自分に暴力を振るおうとした」と触れてまわったようである。

テグシガルパのJICA事務所から、事情を説明に来るように電話があった。話を聞いた所長は、さっそく博物館に手紙を書いてくれた。その内容は「ドアをけった行為については正しくない。本人に謝罪をさせる。しかしその原因となった部屋の撤去およびカウンターパートの解雇は、ボランティア本人とJICAに対する敬意の欠如である。以上2点の原状復帰を3カ月以内に要求する。復帰のない場合、JICAは博物館からの撤退を考える」というものであった。
ところが、この事件はわずか一週間にして結論が出たのである。JICA事務所の所長は突然サンペドロスーラへやって来た。スー・ジェンを加えて三人で話をすると言う。しかし、所長は私を除いてスー・ジェンと二人だけで会った。そしてJICAは(自分は)博物館からの撤退を決めたという。いきさつはよくわからない。スー・ジェンは所長が手紙で求めていた2点の原状復帰に回答せず、「今後は日本の援助を求めない。台湾の援助を受ける」と言ったというのだ。所長が撤退を決めた理由は、現地のマスコミ沙汰になること、事務所が問題に巻き込まれることを恐れたのだと、私は推測する。所長は私に向かって、何故か「あなたが悪いのだ」と言ったが、その説明はなかった。結局、所長はスー・ジェンの迫力に負け自分に取って無難な道を選んだ。彼に取って、ボランティアの存在はあって無きが如きものだろう。サンペドロスーラへ彼が来るのは、JICAが参加するセイバのカーニバルと、自分が出場するマラソン大会である。彼はいつも東京の方角を向いている。自分が何より大切だ。市役所から私にこの件に着いて話を聞きたいという。これに対してJICA事務所は、聴取に応じないように、博物館へも一切行かないようと、に指示してきた。全てを事務所にまかせて、しばらくお前はアパートに居るようにいうのである。
そしてもう一つの扉が開く
JICA事務所は、私にしばらく自宅待機するよう指示したまま、その後何の連絡も来ない。大阪の教育センターでMさんにいただいた立派な天体写真パネル20枚を、プラネタリウムのある別館に展示する仕事があるし、新展示のために購入した偏光シートの説明も技師にしなければならない。私は毎日博物館へ通った。
アパートの家主は、博物館での話を聞いて顔を曇らせた。「ホンジュラスでは何事も政治がからむのだ。以前、親戚に大学の副学長がいたのだが。どこかいい所はないかな」と心配してくれる。

館長ホセ・ルイスが自宅に館員たちを呼んだ。解雇された人たちも全員がやって来た。掃除のおばさんもいる。みんなは、私のことも心配してくれた。デリアによれば、テグシガルパ教育大学のゴンザレス教授が、サンペドロスーラ教育大学と連絡を取っているという。以前、子ども博物館と教育大学の連携を進める会議を開いたとき、大学側からは、テグシガルパ教育大学のゴンザレス(物理学)とサンペドロスーラ教育大学のエルメス(数学)がやって来た。私もその場に呼ばれ、水ロケットや浮沈子、モーター、黒い壁などを紹介し、私の仕事についても話した事がある。あのときのゴンザレス教授である。
12月。サンペドロスーラに来て丸一年がたった。年中暑いホンジュラスも冬である。少し気温が低いと皆「寒い」「寒い」と大げさに着こんでやって来る。サンペドロスーラ教育大学に私の仕事がありそうだとデリアたちが話している。あの数学の若いエルメス教授は、何とサンペドロスーラ教育大学の学長でもあった。私は教育大学へ出かけることになり、エルメスと学長室で会った。彼は言った。「ここの学生達にあなたの持つ実験教育の技術を教えてもらいたい」。私はうれしかった。1年間親しんだサンペドロスーラにもう1年いて、ボランティアを続けることが出来る。
サンペドロスーラ教育大学
JICA事務所は、この話が急速に進んだことに驚いていた。事務所の方もたぶん私の仕事を探してはいたのだろう。しかし具体的な話は何もなかった。それにしても、この1年間で知り合ったホンジュラス人たちが、私のために動いてくれ、今新しい仕事の見つかった私のことを喜んでくれるとは、何という幸運だろう。博物館を解雇されたデリアもテグシガルパのJICA事務所で働くことに決まった。彼女は私に言った。「あなたが行く教育大学はスペイン語の世界よ。もっともっとスペイン語をしゃべりなさい。間違いを恐れないで。これはわたしからのorden命令」。
日本の娘からメールがあった。
「新しい仕事に向けての準備スタートだね。今までの仕事や人間関係をきちんと構築してきたおかげだと思う」そう書かれていた。
“Cuando una puerta se cierra, otras se abren.”
一つの扉が閉じるとき、別の扉が開く。