ジョージか堪らない
職場の事務所にお猿のジョージのぬいぐるみがあった。その子は冬仕様で小さなニット帽を被せてもらっていて堪らなかった。お猿のジョージ用のニット帽なのかは定かではないが、なんとなくこの子様に作られたものなのではないかと思った。一瞬で心が緩んだ。
事務所にはパートさんやアルバイトさん達をまとめる所謂社員的なお方達が数名いるのだが、その内の1人にとても装飾に拘る方がいる。トイレの壁に季節に応じたステッカーを貼っていたり、事務所の棚には季節に合わせたアイテムを飾りつけたりしている。私はそれを見るのが大好きだし、結構楽しみにしている。
ハロウィンの時期にはついにトイレからはみ出して、廊下の隅っこにフランケンのステッカーが貼られていた時には非常に興奮した。
その方は自分が好きだからやっているのだと思うが、こうして仕事という憂鬱の中、1人のアルバイトの心に光を差しているのだ。その行為自体は誰かにお願いされているわけでもなさそうだし、なんなら誰かに褒められたりもしていないだろう。だが、私は楽しみにさえしているのだ。
これが「究極体」だな、と思う訳です。私もそういう作品を作れる存在になりたい。
誰かにお願いされている訳でもない「音楽」を作る行為。お願いされていないのにこんなに悩めるって最高な人生だとも思うのです。苦しいなら辞めればいいのに、何故か辞められなくて、好きなんだと思う。好きなことして1人で悩んで、幸せ者じゃん!そして、そこで生まれた創作物が誰かにとってささいな楽しみになれているならこんなに幸せな事はないなと思う。
ディズニーランドに行きたがっていた幼少期、あれだけ楽しみにしていたのに大人になって行ってみたら拍子抜けしてしまったあの気持ちが「私」だとするならば、今は従順に「私」をやれている。とてもとても有難いことだ。
最近、一周回ってぬいぐるみが欲しい。どこを一周してきたのか、或いは二、三周している気もするが、今はぬいぐるみ(小さくてやわらかい可愛いもの)が愛おしくて堪らない。この前頂いたキティちゃんはデスクに常駐してもらうことにした。ついでに目薬も持ってもらうことにした。
“モノ“はこうして、“誰か”の“ナニカ”になっているのだとすれば、やはり私はモノづくりをしながら生きていきたい、と心から思う。その人生に対しては諦めたくない。例えそれが現状に対する不満を生んでいるとしても、やっぱり諦めたくない。
私が憧れる人は、大抵自分の様な人間を嫌っている様な気がして辛くなる。高校の時に慕っていた現代文の先生も多分私の事は眼中にさえなかった。(体感ではあるが)そういうのを感じる度に、誰かの好意の中に飛び込もうと己の形を変えようとしてきたのだが、それだと多分私がダメになるのよね。そこがいつも難しい。揺らぐのはいつもその部分。本当にそれだけな気がする。誰に嫌われようと私は私で生きていくこと。最近少しずつ出来る様になってきました。勘違いなのかもしれないし、本当にどうでもいい事で諦めた方がいい事なのかもしれないからね!
などと思う休日。沢山寝た。