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そんな時にはあたたかいお茶を
数か月にわたる仕事の修羅場がようやく一段落した。
差し迫る期日や、チームメンバー同士のすれ違いや、計画通りには進捗しないタスクや、様々なぐちゃぐちゃを抱えた仕事場はどんどん殺伐としていく。終電で帰ることが増え、残業時間が積み増されていくとともに心身の余裕がなくなっていく。
ましてや私は仕事の傍らで秘密裏に離婚協議を進めている身で、心に葛藤と不安を抱えながら大きな意思決定を迫られる局面が続くのだ。これだけタフな状況が重なると、とにかく毎日寝起きして、食事をして、通常通りに生活できていること自体が自分でも時折不思議になるくらいだった。
あまりに多忙な日が続くと、朝目覚めた瞬間に「疲れたな」と思う。それでも必死の思いでシャワーを浴びて朝食を済ませ、なんとか出勤する。デスクの前に座り、PCの電源をいれる。起動を待ちながら、やおらバッグから水筒を取り出す。中には温かいほうじ茶が入っている。奮発して買った加賀棒茶はふっくら良い香りがして、湯気だけでも気持ちがゆるむようだ。
良い香りをかいで、温かいお茶でお腹が温まると、「今日も何とかいけそうだ」と思う。かくして、PCも私も無事に起動と相成る。
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夫の暴力から逃れてマンスリーマンションに引っ越した時、一番初めに嬉しさを実感したのは温かいお茶をゆっくりと飲めることだった。
夫がキッチンでフライパンを振りかざして暴れた日から、彼が在宅している時にキッチンを使うことに私はとても強い恐怖を感じるようになった。そしてアルコール依存症で休職していた彼は、私が家にいるタイミングではほとんど常に在宅していた。だましだましで必要最低限の料理はするが、ゆっくり落ち着いてお茶を淹れることは、心理的にとてもできなかった。
避難先に着いてすぐにコンビニでリプトンのティーバッグを買い、部屋でゆっくりお茶を淹れた。平穏な日常生活が少しだけ帰ってきたな、と思った。しみじみと嬉しかった。
今になってみると、ただお茶が飲めるだけであんなに嬉しかったなんて、随分追い詰められていたものだなとも思う。
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私にこんなことを教えてくれた人がいる。
人の心の動きは「エモーション」と「フィーリング」の二つに分けられるのだという。「エモーション」は大きな怒りや喜びのような激しい感情を指す。これは激しく心を揺さぶりはするけれど、長い時間持続するものではない。一方で「フィーリング」は「なんとなくイライラする」とか「今日はすっきりした気分」といった長く持続する感覚を指す。激しい嵐のような「エモーション」をコントロールすることは難しい。しかし、「フィーリング」の部分は自分でコントロールすることができる。好きな食べ物を食べること。好きな音楽を聴くこと。気に入った着心地の良い服を着ること。私たちはちょっとしたことで自分のフィーリングを良い状態に保てる。自分で自分を良いフィーリングで満たすことを大切にすると、自分の力で日常生活を少し気持ちの良いものに変えることができる。
なるほど、と思う。
おそらく、私にとって逆境にあっても自分を良いフィーリングで満たすための手軽な手段の一つが温かいお茶を飲むことなのだ。「辛い」「しんどい」と叫び出したくなるエモーションの暴風が断続的に続いていても、フィーリングを良い状態に保てれば、何とか乗り切ることができる。
もちろん、多くの場合それは辛い状況に対する本質的な解決手段ではない。非人間的な働き方に疲れているならば、上司にかけあって仕事量を調整することや、場合によってはその職場から離れる決断をすることも必要だろう。夫の暴力に困っているならば、周囲の人や弁護士の力を借りながら具体的に行動していくことが必要だ。温かいお茶を飲んで一息ついているだけでは目の前の問題は解決しない。
それでも、と私は思うのだ。
問題解決のためのアクションは大抵の場合、非常に大きなエネルギーを必要とする。そのためにはまず少しでも自分の気持ちを健やかなものに整えて、元気を取り戻す必要がある。だから、エモーションの嵐の合間でぼろぼろになっている時にも、まず私に必要なのは温かいお茶だ。
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自分のフィーリングを良い状態に保つ手段をいくつか自分の中にリストアップしておくと、辛い状況を乗り切る道しるべになる。数か月のタフな状況を越えて、現在の私のリストにはこんな手段が並んでいる。温かいお茶を飲む、少し高い濃厚な飲むヨーグルトを飲む(コンビニで200円以上するものが効果がある)、チョコレートを食べる、落語を聞きながら眠りにつく、一人で外でコーヒーを飲む、信頼できる友人と食事をする、等々。どうということのないものばかりだが、時にはこんなことが命綱のようになる。
このリストを充実させることは、逆境でも折れないしなやかな強さを身に着けることなのかもしれない。強さなんて大袈裟に言いながら、実際にやっていることはただお茶を飲んだりチョコレートを食べたりしているだけだけれど。
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(付録:私の近況)
離婚に関わるいろいろな条件が整うまでもう少し。年内には片を付けられそうです。ここまできても、なおも自分の決断が現実になることが怖いと思うのはなぜでしょう。