逃走生活の始まり
スーツケースと大きな紙袋一つずつに詰められるだけの衣類や生活用品を抱えて私が自宅を出たのは、9月半ばの午後のことだった。
私と彼の共同生活は結婚後わずか数か月で始まった彼の暴力によってあっという間に破綻した。二人で話し合おうとしたり、感情的に泣き叫んだり、病院に行ったり、問題を記したカードをテーブルいっぱいにならべて因果関係を整理しようと試みたり、いろいろな出来事があったけれど、そのどれもが根本的で効果のある解決策にはならなかった。
寂しいでもなく、悲しいでもなく、ただ淡々と避難先に向かって街道沿いの歩道を歩いた。何の感慨も湧かなかった。それは例えば虫歯の治療に行くような気分だった。義務感と呼ぶのが近いかもしれない。おっくうだし、たまらなく嫌だけれど、やらなければならないことなのだ。そうしなくてはこの先虫歯が広がるばかりなのだ。
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日常的に暴力的な言葉や行為にさらされて生活していると、少しずつ感情がすり減っていく。感情を抑えて冷静に振る舞おうとしているうちに、やがて自分の感情が分からなくなる。怒鳴られても、モノを投げつけられても、それが酷いことだと感じられなくなる。
自分が大袈裟に反応しすぎているのではないか。もしかしたらこのくらいのことはどこの家庭でもあるのではないか。我慢できるうちはまだ大した事態ではないはずだ。
ごまかしごまかし日々をおくるうちに私は度々強いめまいに襲われるようになり、会社帰りに駆け込んだ内科医院で精神安定剤を処方されることになる。理性で抑え込んで無理に感情から目を背けることには成功してきたが、ついに身体が悲鳴をあげ始めたのだ。
「このままではあなたの人生がもったいない」
信頼する人の言葉に背中を押されて、私はようやく家を離れる決意をした。
この時、最初の暴力の日から既に8か月あまりが経過していた。
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街道はトラックが何台も行きかって空気が悪く、荷物を詰め込んだ紙袋の紐はぎちぎちと手に食い込んだ。友人の結婚式の引き出物が入っていた広いマチのある丈夫な紙袋が思わぬタイミングで役に立った。重い荷物をもって歩いているとじっとりと汗ばむような陽気で、夏はまだ終わっていないのか、と思った。夏がいつの間に来て、いつの間に盛りを迎えたのか、無理して毎日をやり過ごしてきた私は全く知らない。
避難先のマンスリーマンションにたどり着く。
パイプベッド、テレビ、書き物用のデスクだけの殺風景な部屋である。トイレットペーパーやハンドソープなどの消耗品や細々した食器類などはすべて不動産業者が手配して部屋に入れておいてくれたからすぐに生活を始められる。(不動産屋さんというのはいろいろな人の人生を見ているためか実に冷静で親切なのだった)
整理するほどの荷物などない。服をクローゼットにかけ、通勤用のパンプスを下駄箱に収め、貴重品をしまい込めば逃走生活の準備完了だ。
義父と彼に一言ずつメールを送る。「心身の具合が悪いのでしばらく離れて暮らさせてほしい」 このことを息子にきちんと知らせてあるのか、と義父から返信がある。私が体調を崩していることは以前から知らせてあるのだから、せめて気遣いの言葉が一言くらいあれば感じが良いのに、とぼんやりと思う。彼からは返信もない。
一仕事終えた私は何もすることもなく時間をもてあまし、スマートフォンで映画を観ることにした。このタイミングで映画を観て楽しむことなんてできないだろうけれど、何も考えたくなくて、何かで頭の中をいっぱいにしておきたかった。
なるべく軽い気持ちで見られるものをと『ブリジットジョーンズの日記』を選ぶ。
映画の冒頭、恋人のいないブリジットは一人の部屋でだらしなくパジャマを着て「All By Myself(私はひとりきり)」を絶唱して泣く。
感情を爆発させるブリジットが羨ましくなったのかもしれない。感情を殺して生活してきた日々から解放されたことをやっと実感できたのかもしれない。この日初めて涙が出た。
こうして私の逃走生活が始まった。
このnoteには逃走生活のあれこれを書きたいと思う。