折に触れて(武田信虎)
武田信玄の父である武田信虎は1494年に武田信縄の側室岩下氏との間に生まれたとされる。元服当時には武田信直と名乗っていた。この時代は武田に限らず目まぐるしく改名するが、信虎は改名後の名乗りである。前稿に記したように叔父油川信恵とそれを支持する祖父信昌は父信縄と武田の家督をめぐって骨肉の争いを繰り広げていた。1498年に南海トラフ地震が起こり(明応地震)太平洋側の諸国が一様に大被害となったが、甲斐の被害も大きかったため両派は御家騒動を一時停戦していた。1505年に武田信昌は死去し、1507年には信縄も死去したことから油川信恵も自分が晴れて家督相続と考えたのだろうが、そうはならず武田信直(信虎)が家督を継いだ。油川信恵は挙兵し、武田信直と戦うことになった。武田信直は勝山城での戦いで油川信恵を大いに破り、信恵のみならずその息子の弥九郎、清九郎、珍宝丸、それに信恵派の主要人物をことごとく討ち取ったことから武田家はようやく武田信直の家督相続が確立することとなった。
武田宗家は手中に収めたものの今度は祖父信昌以前からの課題である甲斐国内の主要国人たちの統制という問題に武田信虎は直面することになる。まず、甲斐の東南部にあたる都留郡は地理的に伊豆・相模や駿河との関わりがあり、小山田氏が伊勢宗瑞や息子北条氏綱を引き入れたりして度々、武田氏に反抗している。1509年秋に武田信虎は都留に出兵し、1510年には小山田氏を屈服させている。小山田信有に妹を嫁がせたりして都留郡では反抗勢力が出ないように配慮している。1515年には身延や巨摩などの甲斐南部の国人である穴山氏で内訌があり、今川氏や伊勢氏からの介入を招いた。一時は甲斐の南部を今川・伊勢に席捲される形勢になったが、武田信虎は小山田信有とともに戦い、最終的に和を結んで今川・伊勢に撤兵させる。その間、甲斐北西部には信州から諏訪湖あたりを領有する諏訪氏が侵入して来ている。1509年には諏訪賴満が侵攻し、信虎はこれを迎え撃ったりしている。
武田信虎の功績として甲府という街を作り上げたことを見落とす訳にはいかない。それまでは武田の館は石和にあり、1518年、それを相川扇状地に移して武田氏の城下町として整備した。常時は躑躅ヶ崎館において居住し、政務を執り、詰城に要害山城を築城した。その要害山城では1521年に武田信玄が産声を上げている。この甲斐の中心たる新しい街(甲府)に有力国人を集住させて家臣化を図った。中には家臣集住化を嫌う者もいたが(今井信是、大井信達)、武田信虎は容赦なくこれを討伐して自分の勢威を知らしめる。