折に触れて(斎藤妙純)
1480年2月に斎藤妙椿は息を引き取る。守護の土岐成頼を上回る官位に就いた彼は実のところは甥の守護代斎藤利藤を補佐する叔父の立場で生涯を終えた。終生、美濃守護でもなければ守護代でもなかったのである。その彼が専横とも見られるまでに美濃を牛耳ったのであるから死後は当然のごとくそれまで水面下にあった感情が噴き出すことになる。今まで叔父妙椿の顔を窺って恐る恐る守護代の体裁だけ繕っていた斎藤利藤、それに守護の土岐成頼が「当たり前の権力」を求め始める。また、逆の立場からの当然の感情もある。斎藤妙椿が持っていた権力はその継承者に与えられるべき力だと考える感情である。この2種類の「当たり前の感情」の衝突は不可避となる。
立場的に土岐成頼には斎藤妙椿の一族への不快感は斎藤利藤ほどにはない。官位が守護たる自分を上回ったことには不快感を禁じ得ないが、斎藤氏の内部がどうであろうと所詮、自分はどちらかに担がれる存在である。
斎藤妙椿は生前、斎藤利藤の父利永の子、妙純(利国)を養子にして自分の後継者に指名し、守護の土岐成頼には利国を自分同様に扱って欲しいと言い残している。つまり斎藤妙純は斎藤利藤とは父を同じくする異母兄弟の間柄である。斎藤妙椿没後三ヶ月にしてこの2人は兄弟喧嘩を始める。妙椿在世時に横領した荘園の扱いをめぐって諍いを始める。8月には双方が兵を出して合戦に及ぶ。守護土岐成頼の支持を取り付けた斎藤妙純に押されて、11月には斎藤利藤は近江に逃れる。斎藤妙純は更に追い打ちをかけ、家宰の石丸利光を近江に派遣して追跡をする。たまらず斎藤利藤は京に逃れ、幕府に駆け込んだ。
斎藤妙純は妙椿が養子に選び後継者にしただけに有能な武将であったようだ。斎藤利藤を京に逼塞させた後、1481年には越前朝倉氏景に対し、斯波義俊(斯波義廉の子)を越前の名目の太守として担いでおけば露骨な下克上との誹りを免れる、(自分と同じように)実質の国主であればいいのではないかと提案し、朝倉はこれを受け入れた。その助言自体の効果よりもこれがきっかけとなって斎藤・朝倉が同盟に近い極めて緊密な関係になったことが大きい。後に1491年には妙純の娘が朝倉氏景の嫡男貞景に嫁いでいる。
斎藤利藤は京にいても復権は難しいと考えたのか、斎藤妙純からの奪権はやはり美濃現地に入らねば難しいと考えたのか、様々な思惑があったのだろう。幕府に仲介してもらい、美濃に帰ることとなった。1487年5月に斎藤利藤は美濃守護代に返り咲く。父妙椿同様に斎藤妙純はこれを補佐する名目で実際の美濃の内政・外交を牛耳っていた。妙椿時代への回帰である。