折に触れて(土岐氏から斎藤氏へ)
美濃は代々土岐氏が分国として治めていた国である。何年か前の明智光秀を扱った大河ドラマでは土岐源氏という言葉がよく台詞に出ていた。源氏と聞いてすぐに思い浮かぶ源氏は河内源氏である。多田満仲の3男頼信の血筋である。源頼朝も足利尊氏もこの流れに位置する。対して土岐氏は満仲の長子頼光の血筋である。満仲の摂津多田荘に本貫を持つことから摂津源氏ともいう。このように土岐氏は大江山の酒呑童子退治で有名な源頼光から流れて鎌倉時代前には美濃に所領を持ち、ここで勢力を張った。南北朝時代には正中の変の頃から鎌倉幕府打倒に絡み、室町幕府の草創期には有力大名として名を連ねている。佐々木道誉や高師直と並んで婆娑羅大名として名高い土岐頼遠も美濃を基盤に活動した大名である。準四職家として応仁の乱までは、畿内に近い地理的な優位性を活かして室町幕府に重きを成した家である。
1392年、足利義満が六分の一殿山名氏を挑発して明徳の乱となるが、このとき美濃・伊勢の守護である土岐康行は山名に呼応して挙兵する。康行の叔父頼忠やその子頼益はこれに反対し、幕府方として康行と戦って勝利する。以後美濃では頼忠・頼益の血筋が主流となったが、伊勢は取り上げられてしまう。それまでは庶流であった頼忠・頼益が美濃守護になっても美濃の国人層では容易にそれを認めるようにはならなかった。1399年の応永の乱では康行の娘を妻としている土岐詮直(頼益の従兄弟)が蜂起し、それを大内義弘討伐に堺まで出向いていた土岐頼益が美濃に取って返して鎮圧するなど分国統治には苦労していたようである。しかし、その甲斐あってのことだろう、土岐頼益は侍所頭人を命じられて土岐一族としては最高の地位を手中にしている。
そんな土岐一族が没落してゆくきっかけになるのはやはり応仁の乱である。分国統治に苦しむ土岐頼益は守護代としていずれも外様の斎藤氏、富島氏を任用したが、この2家が勢力争いを始める。斎藤宗円が京都の土岐邸で斎藤氏を殲滅し以後は斎藤氏が守護代を独占するが、宗円の子妙椿は主君である守護土岐成頼(頼益の子)の官位を上回る官位に叙せられ、実質の美濃国主として振舞うようになる。そんなことが出来るほどに妙椿は有能であったようで、彼は美濃のみならず尾張・越前・伊勢・近江・飛騨と美濃と境を接する諸国にまで影響力を持つ。応仁の乱では西軍に属し、応仁の乱終息前後には足利義視・義材の父子を美濃に匿ったりしている。斎藤妙椿は美濃で下克上を始めた創始者と言える。上記のとおり土岐頼忠・頼益以降の守護家の権威を疑問視する豪族が少なくない美濃は斎藤妙椿死去後には更に混乱するようになる。