折に触れて(松波庄九郎)

斎藤道三の父、松波庄九郎は山城国乙訓郡西岡に生まれたとされる。今の地名で言えば長岡京市の西部、京都府・大阪府の府境にあたる。足利尊氏がこの土地を直轄地として幕府の経済的・軍事的な拠点としたために西岡衆と呼ばれる土地の豪族たちは将軍家旗本の役目も担っていたとされる。現在のJR山崎駅から数分のところに離宮八幡宮という古社がある。平安時代初期に荏胡麻採油の技術がこの地で確立し、以後この技術が諸国に伝播したことから全国の油を扱う業者から特別に扱われる神社になる。15世紀末の時点では油座(油取引業者組合)の元締になっていたのがこの離宮八幡宮である。
さて、松波庄九郎は幼名峰丸としてこの西岡に生まれた。生年は確かな記録がない。やがて10歳を超えたあたりで京に上り妙覚寺で得度を受ける。このときに同じく小僧をしていた美濃から来た南陽房日運と知り合う。日運は斎藤利藤の末子であり、船田合戦の折には幼少であったため仏門に入ることで命を許され、妙覚寺で法蓮房こと松波庄九郎と縁を持つこととなった。妙覚寺で修行を終えた日運は美濃の常在寺に住職にとして赴くこととなり、これを契機にして法蓮房も還俗して僧籍を離れることとなった。さほど親交もない間柄であればこんなことはないのだろう。ほとんど時日をおかずに妙覚寺を離れるのであれば2人の間にはそれ相応の関係があったのは間違いない。松波庄九郎が美濃に飛び込んで以降の日運の動きからもそれは窺い知れる。
還俗した後、松波庄九郎は生まれ育った西岡の縁であろう、油問屋の奈良屋の娘を娶り山崎屋という油屋を営む。油の行商を行なって生計を立てた。有名な逸話では永楽銭の穴に漏斗を用いないで油を通す実演販売が評判になったとされる。生来利発で妙覚寺でもその優秀さを謳われていたという松波庄九郎。僧としても将来を嘱望されていたというのにあっさり還俗してしまうことからも垣間見えるように欲望が強く、絶えず更に上のレベルの功名を求めるタイプの人間であったようだ。彼はやがて油商人で金銭を稼ぐ生活に飽き足らなくなって来る。武芸に励めば武士になり、武士になれば更に大きな力を持てるだろうと考えた彼は武芸の鍛錬に勤しむことになった。
どちらが声をかけたか、かけられたか?ここで松波庄九郎は日運が住職をしている美濃に赴くことにする。斎藤家は船田合戦あたりから揮わなくなっていたといえ、一応は美濃の守護代の血筋である。その生き残りの日運には一定の権威があり、何より縁者の数が多い。この日運のコネクションを利用しない手はないと考えた松波庄九郎は美濃に足を向けることとした。


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