折に触れて(今川義元登場)
寿桂尼は権大納言中御門宣胤の娘として生まれ、今川氏親に嫁いで後は80歳以上とも言われる高齢まで一貫して今川を支えたとされる女傑である。夫氏親の最晩年10年ほどは脳卒中を発症したためにほとんど枕が上がらぬ状態にあった。寿桂尼が事実上駿河太守の仕事を行なったとされている。氏親の嫡子氏輝は病弱であり夭折する。その上、氏輝の後は花倉の乱という跡目争いが起こり、氏輝の弟で仏門に入れられていた玄広恵探と栴岳承芳(後の今川義元)が争う。そういうことから1510年代から約20年の間は寿桂尼が中心になって今川家を取り仕切っていたと言えなくもない。この稿ではそんな今川氏親死去後の経緯を述べてゆくことにしたい。
今川氏親が死去するのは1526年、そしてその嫡子氏輝が死去するのが1536年だから氏輝が今川の家督を担っていたのはわずか10年に過ぎない。生来病弱であったそうだが、それでも彼なりに頑張った事蹟を残している。伊勢宗瑞の後継である北条氏綱とは従来の友好関係を維持し、1535年には父の代からしばしば紛争を起こしている甲斐に今川・北条同盟軍で攻めこみ、一時的ではあるが甲斐の南半分に居座って武田信玄の父信虎の心胆を寒からしめている。彼は14歳で家督を相続し、以後2年間は寿桂尼が印判を押して公文書を発行している。16歳になって実際に政務に携わるようになるが、それから急死に至る短い間には熱心に検地を行なうなど、上記の甲斐侵攻などの軍事的な部分のみならず民政面でも非凡な才能を窺わせている。複数の史料が述べるところでは1536年の同じ4月7日に今川氏輝と弟彦五郎が息を引き取っている。偶然の一致なのか、毒殺であったか、それとも暗殺であったのか?
今川氏輝と彦五郎が相次いで亡くなるとその弟である玄広恵探と栴岳承芳のどちらかを還俗させて当主にせねばならない。こうなると当然のように御家騒動になるのが悲しい。多くの場合、本人は周囲の人間たちの利権が絡んで知らぬ間に担がれて当事者にされてしまう。玄広恵探と栴岳承芳もそうである。氏親正室寿桂尼は栴岳承芳が自分の子、嫡系であることから一も二もなく栴岳承芳を還俗させ、家督を継がせ義元と名乗らせる。これに異を唱えたのが遠江回復併合の過程で功があった福島氏である。玄広恵探はこの福島氏から出た娘が今川氏親の側室となり生んだ子である。一族の利権と母同士のプライドが争いの種になったのであろうか。寿桂尼は福島氏と面談し説得を試みたが不調に終わり、1536年6月13日玄広恵探・福島氏は挙兵した。一旦は駿府の国守館まで迫るが押し返され、その後2週間で叛乱派は滅ぼされてしまう。