『神曲』、精神を病む人々と劇的存在者 1/2
現実と劇 ー演劇を「撮影」する
映画作家が現実を、世界を、他者をどう視覚的に表現しようとするかについて考えるとき、マノエル・ド・オリヴェイラの映画は非常に興味深い示唆を我々に与えてくれる。『アブラハム渓谷』や『フランシスカ』と並んでオリヴェイラの最高傑作とも称される1991年公開の『神曲』は、そのどれもがお世辞にも現実的とは言いようのない細部の集まりによって形成された映画であるにも関わらず、そこに圧倒的な現実が、幻惑的な世界が、魅力的な他者が存在しているからである。アダムとイヴの楽園追放を演じる男女や『罪と罰』のラスコーリニコフとソーニャの劇的な挿話を突如として演じ出す男女、自らをキリストと称し最後の晩餐を再現する男や何も書かれていない書物を「書いた」と言い張り持論を展開する神学者と、その言に常に反論し議論をふっかける哲学者など、「素っ頓狂」な人間たちが一堂に会して共同生活を送る屋敷を、作家はただ「精神を病める人々の家」という表札のクロースアップのワンショットだけで説明する。
彼らがどのようにしてこの屋敷で生活するようになったか、なぜ精神病者たちがこのように大きな豪邸で暮らしているのか、なぜ彼らはみな何かを演じ常に「劇」を繰り広げるのかといった、この映画にまつわる常識的な「謎」については一切言及されない。ただ映画は、「我が孫、デイヴィッドに捧ぐ」という献辞に続いて、一糸纏わぬ姿で屋敷の庭に出た男女が「禁断の果実」を食べて神の怒りを買うという「創世記」の挿話を演じる様を、決して動かないカメラで捉えた完璧な構図と照明のショットの連なりで描写していくだけなのである。この常軌を逸した行動を同居人たちは室内から不思議そうに見ているのだが、このシークエンスの最後に挿入される蛇のクロースアップ ー誘惑の象徴ー にこの映画を見る私たちは胸を突かれる思いをする。
なぜなら人間が「誘惑」によって原罪を与えられる物語を描写したこのシークエンスそのものの美しさに、見る者は映画的な誘惑を感じずにはいられないからである。マノエル・ド・オリヴェイラの『神曲』は確かに、どこまでも深刻で誠実な映画である。それはこの映画の中で言及される事柄が、宗教や倫理について深い哲学的な思索をもって論じられたものであるという意味での深刻さと、この映画の論者たちがみな自己について赤裸々に思考し表現しているという意味での誠実さに他ならない。しかしながらその深刻さと誠実さに反して、この映画が捉えようとしている世界 ー時間と空間の化合物としての世界ー はあまりに欲望に忠実であって、深刻さや誠実さが安易に導き出しそうな「禁欲」という要素は一切持ち合わせていない。映画の登場人物たちは80年代のオリヴェイラ映画のそれのように派手な見た目と大胆な動き、大袈裟な感情表現をもってこの世界に生きているし、画面は90年代のように計算された構図のショットと入り組んだモンタージュによって美しく彩られており、まさに『フランシスカ』のオリヴェイラと『アブラハム渓谷』のオリヴェイラが融合したような、映画的欲望の最も明確な発現にさえなっているのである。だから人は『神曲』について語るとき、この映画の深刻な「知性」について語るより、欲望に忠実な「感性」について語るべきである。この映画は、この映画に理解のない人々が言うように「難解」なのではない。この映画は見る者が「見たい」と思っているものだけによって形成されており、その点においてどこまでも「分かり易い」映画なのである。そして『神曲』の派手な映画的欲望の発露に最もよく使われているのは、紛れもなく「他者」としての「世界」であり、「現実」である。
ではこの映画における「現実」とは一体何なのか。マノエル・ド・オリヴェイラにとって現実とは社会のことではない。一般的に「現実的」で「自然主義的」な映画と言われるものが安易に描写しがちな「社会」としての外部を、オリヴェイラは決して映画の中に組み込みはしないのである。バイクで颯爽と現れたイヴァンの兄が、イヴァンと院長との3人で話し合い、『大審問官』を朗読するシーンにおける院長のクロースアップを思い出してほしい。院長の真後ろにはこの広間の入口があるのだが、そこに他の住人たちが野次馬として集まっている。この野次馬たちは院長の顔の後方で決してフォーカスが合うことなく画面の中に収まっている。
このシーンの主題はあくまで3人と朗読され議論の火種となる『大審問官』に他ならない。しかしながら、フォーカスの合わない野次馬としての精神病者たちの存在がこのシーンの美しさ、あるいは誤解を恐れずに言えば感動的な滑稽さの獲得に大きく貢献しているのである。そして3人の長い議論のあと、それを見ていた精神病者たちは『大審問官』の中で主がしたように性別に構わず接吻し合う。この感動的なシーンは『神曲』という映画の素晴らしさを簡潔に象徴していると言える。この映画は、まさに「狂気的な」幾人ものキャラクターが脈絡のない幾つもの「劇」を演じるとこによって、かえって映画的な時間の結束が高まるという逆説的な作品である。ソーニャとラスコーリニコフの『罪と罰』の20分に渡る長い再演がなされたかと思えば、「哲学者」が聖女テレサに言い寄って返り討ちにされたり、自分をキリストと信じ込んでいる男がピアノの上に立ち説教を垂れたりするこの映画は、確かに混沌としていて脈絡のない映画と言えるかもしれないが、しかしこの映画を見る我々はまるで完璧に作り込まれた娯楽映画を見ているかのように、こういった白熱したシーンの連続に心を奪われてしまう。それは単に社会的なものなど一切描写していないこの映画が、シーンそのものとは直接関係のない「他者」を限りなく巧みに使うことによってそれを「現実」とし、そのシーンの感動をより強調するからである。
オリヴェイラは現実と劇の扱い方を知っている稀有な映画作家の1人である。オリヴェイラは一時期まで、演劇が撮影されたものに他ならない映画はワンシーンワンカットでなくてはならないという考えを持っていた。そのために『私の場合』(1986)までの映画は長回しを基本としたものが多い。しかし『カニバイシュ』以降考えを改めたオリヴェイラは、本人の言うところの「入り組んだモンタージュ」を積極的に為すようになったのである。彼の演劇と映画との表現の融合は『神曲』でついに最高到達点に達したように見える。演劇の美しさと映画の美しさを最大限に活かすこと、より正しく言えば「演じるということ」の美しさを映画的に表現すること。このことが『神曲』におけるオリヴェイラの挑戦であり、素晴らしさの理由に他ならない。オリヴェイラは演劇の美しさを、人間の感情の最も切実で迫真的な側面の表象と信じて疑わない。また映画の美しさを、時間と空間の最も重要な側面の強調と信じて疑わない。この2つの美しさを同時に獲得するために、オリヴェイラは人間と人間の ー切実かつ迫真的なー 「対面」をクロースアップによって強調する。ソーニャとラスコーリニコフの大広間での会話 ー議論とさえ言えるかもしれないー を思い出してほしい。おそらくこのシーンは一つもカットを割らず、長回しで撮られていたとしても十分感動的だっただろう。しかしソーニャが立ち上がったり、聖書を赤いソファの上に置いたり、ラスコーリニコフがソーニャから目を背けたりまたソーニャの方を向いたり、ソーニャの足に接吻する様を一つ一つ美しいクロースアップで捉えることによって、このあくまで演劇的であるはずのシーンを映画的な美しさの中に置いてしまう。私たちはこの映画の演劇的な美しさを、映画的な視点の中で発見していくのである。