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『メフィストの誘い』  ー悪魔のような映画

ある一人の俳優の存在が、一本の映画を傑作たらしめてしまう場合がある。溝口の『祇園の姉妹』の山田五十鈴、『曳き船』のミシェル・モルガン、『若者のすべて』のアラン・ドロン、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントなどがその最たる例である。そして『メフィストの誘い』のレオノール・シルヴェイラも『メフィストの誘い』という一本の映画を傑作に仕立て上げてしまったという点で、記憶されるべき存在だ。誤解のないように予め書いておくなら、一人の俳優の存在が作品を傑作たらしめるということは、決してその俳優だけが素晴らしいということを意味しない。その存在を忘れがたいものとして画面に定着させているのは、紛れもなく演出家であるからだ。

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(『曳き舟』1941年、ジャン・グレミヨン監督)


87歳でこの作品を作り上げたマノエル・ド・オリヴェイラは小津やドライヤーと同じように「フィクションのリアリティ」を信じている作家である(オリヴェイラについて語ろうとすると、どうしても古典的な作家の名前を出さずにはいられなくなる)。彼は、彼の作品世界でのみ通用するリアリティに物語の基準を置いている。そのリアリティを成立させるために、オリヴェイラはクロースアップに異常なほどのこだわりを見せる。まず驚かされるのは、バルタール(ルイス・ミゲル・シントラ)が主人公の夫婦(ジョン・マルコヴィッチとカトリーヌ・ドヌーヴが演じている)に挨拶するシーンでの、ドヌーヴを捉えたクロースアップだ。小津を除いてこれほど素晴らしいクロースアップは見たことがないと思ってしまうほどに見事なショットが冒頭に置かれているため、我々はこの作品にいきなり没入することを余儀なくされる。

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その後も、シェイクスピア=ポルトガル人説の研究のために修道院を訪ねたこの夫婦に、修道院長であるバルタールが院内に住む人々を紹介するシーンにおけるクロースアップや、ドヌーヴとマルコヴィッチの夫婦仲が芳しくないことを暗示する会話での切り返しショット、それにバルタザール(バルタールとは別人)が夫婦に修道院の敷地内を案内して回るシークエンスにおける、ほら穴のような薄暗い部屋の中を覗き込むシーンの、部屋の中に置かれたカメラが覗き込む二人とその奥に位置するバルタザールを捉えるショットも何とも素晴らしく、こんな撮り方があったのかとオリヴェイラの類まれなアングル発見能力にただただ驚愕するばかりだ。

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そして物語も中盤、バルタールがマルコヴィッチの研究の助手としてシルヴェイラを紹介してから、映画はより一層熱を帯びる。純粋無垢がゆえに、男たちを誘惑してしまうピエダーテ=シルヴェイラの一つ一つの仕草がたまらなく美しいのだが、特に書庫でのシーンは溝口健二やジョン・フォードでさえ演出できるかどうかは保証できないほど、映画的に艶かしいシーンになっている。シルヴェイラはインタビューでオリヴェイラの演出についてこう言っている。

マノエルにとって女性は世界で最も美しい動物であって、悪魔か天使なんです。その中間は存在しない!(中略)『メフィストの誘い』では、悪魔その人と一緒に誘惑に陥る、水晶のように透明な処女で、もっとも優雅で、もっとも真摯な状態における女性です。(「レオノール・シルヴェイラとの対話」『マノエル・ド・オリヴェイラ と現代ポルトガル映画』聞き手:ノエル・エルプ、翻訳:吉田広明)

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大学教授が研究するための部屋とは思えないほど暗い部屋に、外からの光が差し込んでいるこの空間は、瞬く間に観る者の理解を越えて映画的感性に訴えかけてくる唯一無二の時空に変貌している。そしてこの完璧な空間の中で、完璧な距離から、完璧なレンズで捉えられたシルヴェイラとマルコヴィッチの切り返しショットを見てしまった者は、オリヴェイラが創造した真っ暗な「映画そのもの」という名の森から出ることはできない。我々は、あの美しいショット、一度迷い込んでしまえば二度と出ることのできないと言われる森の奥へとシルヴェイラが走っていく姿をスローモーションで捉えたショットさながらに、神の仮面を被った悪魔に、いつの間にか心酔しているのである。

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