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浅田彰について - 3
中央公論の浅田彰氏の記事を読みました。
浅田 彰「私が見てきた昭和――熱い60年代、冷めた70年代、そしてニューアカブーム」
それから55年を経て2025年大阪関西万博が開催されるわけです。しかし、そもそも経済特区を構想して造った埋め立て地の使い道がなく、北京と競ったオリンピックの誘致にも失敗し、カジノIR(統合型リゾート)でも造るしかない、そのインフラ整備のために万博をやることになったという感じで、「どうしてもこれを見せたい」というヴィジョンが最初にあったわけではない。また「背伸びしてでも先端を」というのではなく、幼児でも楽しめるようにとことん敷居を下げるのがポストモダン資本主義の至上命令なので、結局、ゆるキャラやロボットが歌い踊るのが関の山ということになってしまうんでしょうね。
予算がいつの間にか2.5倍に膨らんでいても誰も責任を取らないなどどいった、かつての万博での夜郎自大な振るまいばかりが継承され、いっこうに内容がわからず、従って期待が盛り上がらないまま失敗に向かって突き進むのを見ていると、この令和の万博は、まさしく昭和を正確に決算する「昭和100年万博」になるのかもしれないと思います。
まあたいしたこと書いてないので(予想通り)、浅田彰氏によるグールドの再評価の記事でも載せておきたいと思います。
メディア論の視角からグールドを再評価する
マクルーハンの言う「グーテンベルク・ギャラクシー」においては、個人が印刷された文字列を黙読して内面で理解し、そこで熟考したことを主体的メッセージとして公共空間に発出する、それが相互検証・相互批判による熟議につながる、少なくともそういう建前になっていた。対して、ポストグーテンベルク時代のマルチメディア・ネットに覆われた「グローバル・ヴィレッジ(地球村)」は、モダンな都市ではなく、プレモダンな村のポストモダンな回帰と言っていいかもしれない。そこでは音や映像まで含めた情報が飛び交って地球を覆い、人々は公私の別なくその情報の海に浸るようになるのだ。
ただし、マクルーハンの予想と違って、ポストグーテンベルク・ギャラクシーとしてのネットは、ひとつの「グローバル・ヴィレッジ」というより、それぞれかなり閉鎖的な多数のローカル・ヴィレッジズ に分解してしまった(地域別にも関心領域別にも)。とくに最近問題化しているのは、個々の村が 「エコー・チェンバー(共鳴室)」と化して、たとえばドナルド・トランプのような人の声高なさえずり(tweet)をひたすら増幅するという傾向であり、そこでは村ごとにそれぞれの「事実」(alternative fact)や「真実」(post-truth)があることになる。
むろん、データ・ベースと検索エンジンの拡大・進歩により、情報のフローがストックされ、ほぼリアルタイムの検証も可能になってきたが、現状ではそれがあまり効果をあげておらず、「エリート・メディア」の「都市」と、それを「フェイク・ニュース」として信じない大衆の「村々」の分裂を呼んでいるように思われるのだ。21世紀に入って逆に猖獗(しょうけつ)をきわめるようになったポピュリズムは、そうしたメディアの変容なしには考えられない。
これが2017年のことで、浅田氏はこの年に還暦を迎え、東浩紀のゲンロンに招かれお祝いを受けます。その時の様子がVimeoで見れるようです(レンタル)。
20170325_浅田彰+千葉雅也+東浩紀
さらにこの時の模様は新潮2017年8月号にまとめられています。トランプ第一政権の時なのでもう結構古いですよね。
新潮2017年8月号
その後は浅田彰の特集みたいなものは開催されていないようです。最近の東浩紀は「浅田彰への恩返しは済んだ」みたいなことを言っていた記憶があります。
まあだいたい2010年代くらいまでは浅田彰による時代評価(ていうか解説みたいなもの)があるということになりますかね(この頃くらいまではある)。
重要なものはやはりゲンロン4ということになります。
ゲンロン4
直近では美術批評の動画があったと記憶しています。浅田節はご健在のようで。
以上この機会に浅田彰氏についてまとめてみた次第です。
浅田彰まとめ
重要なことはその②にだいたい書かれています。
逆にいえばそれ以上のことが書かれているものはないともいえます。