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光を追い求めたあのころ

「早く大学生活から開放されたい。」

社会人になって自分の夢を叶えるなどというキラキラした気持ちなど、当時は一切持っていなかった。


大学卒業に7年(国立大4年、休学1年、私立大2年)もの時間を費やし、社会に出る頃に25歳を迎えていた自分にとって、社会に出て働くということは「やっと普通の人と同じレールに乗れる」という、ただ、それだけの出来事でしかなかった。


スーツ姿で京阪電車に揺られながら淀屋橋へ。大阪のスポーツ施設を運営する会社で、HP更新や顧客のデータ管理などが中心の事務仕事。それが自分が初めて社会人として与えられた役割だった。


学生時代まではテストがあれば点数が出て評価された。その習慣に慣れきった自分が、社会に入り一番ぶち当たった壁は「なにが正解か分からない」ということだった。


毎日仕事終わりの帰り道は一人反省会。「今日の仕事はあれで正解だったのだろうか?」同期がいなかった自分にとって、その時間は出口の見えないトンネルを彷徨っている感覚だった。


仕事も一生懸命取り組もうとはしていたものの、「この仕事を一生やっていくのかな」という漠然とした不安を拭い去れないまま、一日一日が過ぎていった。


もともと、小学生のころから雑誌を読むのが好きだった自分は、雑誌の編集者に憧れたことはあった。しかし、その目標に向かっていく努力などせず、大学もただ流されるまま通い、就職も本当にしたかったのかさえ分からなかった。


そんな流される人生が本当につまらなかった。自分の本当の人生を生きていない気がした。「普通の人生に乗れる」と思って社会に飛び込んだけれど、普通が何なのかさえ分からなくなったし、そこに幸せが待っていると思っていた自分の目論見は完全に崩れた。


自分の本当の人生を生きたい。そう思った。壁にぶつかって初めて真剣に考えた。周りの人がどうとかではなく、自分が本当に生きたい世界はどこなのか。悩んで、悩んで、悩み続けた。


「編集者になりたい、書くことを仕事にしたい」


それが出した結論だった。スポーツ施設での事務職は長く続かなかったし、そこでの経験は自分にとって苦い出来事のほうが多かったかもしれない。けれど、その試行錯誤の時間は自分にとって必要な時間だったのだといまは思える。


その後、アルバイトをしながらWebライターとして地道に活動し、東京でサッカーのWebメディアやスポーツメディアに携わり、4月からは音楽の世界でWeb編集者として新たなスタートを切った。25歳の時に感じられてなかった気持ちはいまの方が持てている気がする。


けれど、これから自分がどういう人生を送っていこうが、仕事人としてどんなキャリアを築いていこうが、答えが見つからずにもがいていた「あのころ」の自分は忘れたくないと思う。


光の見えないトンネルにいた自分がいまの自分を支えてくれているし、これから困難にでくわしても、そんな自分がいればきっと大丈夫。そんな気がしてならないのだ。

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