傷ついたヒロシマで、私たちは生まれた
一昨日、
ひと休みしようと思ってスマホを手に持ったら、
待機画面に
「日本 平和賞」という速報の文字列が並んだ。
え。
まさか。
驚いた。
その日、ノーベル平和賞が
発表されることは知っていたけれど、
まさかの、日本人…?
画面をちゃんと開くと、
誰もが予想外だった
「日本原水爆被害者団体協議会」
が受賞していた。
亡き母がこれを知っていたら、
なんて言っただろうか。
生きていたら87歳になっていたはずだけど。
晩年の母は、
ウクライナ侵攻に心を痛めていた。
世界から戦争の火種がなくならないことに、
ずっと心を痛め続けた生涯だった。
母は9歳のとき、
広島への原子爆弾投下によって、
母の兄を亡くしている。
母の兄は中学1年生だった。
原爆が投下された日、
父は中学3年生で、
爆心地を歩いて横断し、
帰宅してから生死の境をさまよった。
私とモモちゃんは、
世間で言われるところの
被爆2世にあたる。
親世代は、
世界から戦争がなくなるようにと、
ほんのわずかながら、
市民活動のようなものに加わっていたようだ。
その内容はほとんど言わなかったし、
私にも
受け継いでほしいとは言わなかった。
原爆が投下されたヒロシマが、
言葉にはできないくらい悲惨だったこと、
原爆の投下は、
人間のすることではないということ、
母はそのことだけを私に語り続けた。
心に大きな傷を負った両親に育てられたことに、
影響を受けたのは、
私ではなく、
モモちゃんのほうだと思う。
人が人の姿を失い、
命を奪われる様子を
数多く目にした両親は、
「ほかの子どもとは明らかにちがう」モモちゃんを、
大切に大切に育てた。
良かれと思えることは、何でもやった。
「どの命も、
もう決して
失わせるわけにはいかない」
それは親としての愛情だけでなく、
ヒロシマで多くの命が失われた、
その現場に立ち会った両親の
生涯の使命だったんじゃないかと思う。
父と母は
持っているエネルギーを、すべて注いだ。
当時のヒロシマについては、
浴びるほど聞いて育ったけれど、
私は戦争や原爆にノーと言うような活動に、
参加したことはない。
何かしたほうがいいんじゃないかと、
何度も何度も思ったけれど、
何もしたことはない。
モモちゃんは
自分で自分の命を守ることができない。
もし戦禍に巻き込まれたら、
真っ先に命を奪われてしまうかもしれない。
そんなモモちゃんの命と暮らしを
両親にかわって守りたいと思う。
今の私にとってはそれが唯一の、
戦争や原爆への
「ノー」というメッセージになっている。
この先、
何かもし、私にできることが増えたとしても、
それはきっと、
モモちゃんから始まっているのだと思う。
地球に何億人いたとしても、
そばにいる1人を守り抜くことに、
まずは「イエス」と言い続けたい。
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