感情

ケンジの行動は乱暴で無表情、身体も小さく一般的に言われている良い子とはどこか少し違う雰囲気に思えたが、昭和の感覚の私からすると元気があって良いじゃないかと生来の楽観主義も手伝い、彼と云う存在を肯定的に自分の不安の中に溶かして、少しずつ彼の存在を受け入れ始めていた。今日子も彼を受け入れる決心をしているようだ。今思えば、不妊治療から始まりケンジの話が決まるまで3年は経っていたのではなかろうか、ようやくたどり着いたこの機会を断る理由など皆無であり、長く苦しみ過ぎた私たちは、子を持つという幸せのカタチを信じて疑うこともなく、それは子どもという一種の幸せの偶像であり、本能から湧き出る洗脳だったのかもしれない。私たちはケンジに希望の光を見出し、この暗く長いトンネルが終焉を迎えるという安堵を手に入れるべく彼を全肯定し受け入る事を決心したのかもしれないそれは運命的な話でもなく彼に対する慈悲でもなく、強烈な醜い人間の欲望であったに違いない。幸せとは何だろうか?諸行無常であります。


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