ケンジとの交流は進み、一緒に外出したり我が家に泊まりに来たりと順調の様であったが、一緒に過ごす時間を重ねても彼との距離感はあまり変わらない様に思えたのだ。そもそも5歳の男の子という存在がどのような思考や感情を抱くものなのかよく分からないし、自分の経験を思い返しても、遥か遠い記憶の彼方の事であり、ましてやケンジとは数ヶ月前に出会ったばかりである。 生まれてすぐに施設に預けられ、家庭というものを知らないケンジ、母という安全基地を獲得できずに育った彼の心には大きな穴が空いているの
ケンジとの交流を重ねていくうちに、彼は今日子の膝にのるようになったり、普段は食が細い子らしいが、一緒に食べる昼ごはんを一生懸命残さず食べて見せたり、絵本を私たちに読み聞かせたりと彼なりのアピール?は徐々に見え始めてはいたが、あまり笑顔が見られない事が私は気になっていたし、共感という部分では皆無であった様に思えた。血縁のない大人と5歳児が数回の交流で打ち解けるのは難しいのかとも考えたが、やはり何か違和感のような、子どもであって子どもでないような無機質で何か冷たい金属製のロボット
私たちとケンジの交流が始まった。そもそも彼には面会に来る人が無く、自分と今日子が面会に来ると言う事の流れを職員が簡単なイラストで説明したという話であった。本人も理解したという事であったが、はたして5歳児がどこまで理解できたかは謎だが、現実は行政の決めた幸せ家族計画の道筋通りに事が進んでいる様であった。以前たまたま知り合った20歳位の施設出身の男性と話す機会があったのだが、その時私は初見であったにもかかわらず彼にこう聞いたのだった。親がいないってどういう気持ち?かなり失礼な質問
ケンジの行動は乱暴で無表情、身体も小さく一般的に言われている良い子とはどこか少し違う雰囲気に思えたが、昭和の感覚の私からすると元気があって良いじゃないかと生来の楽観主義も手伝い、彼と云う存在を肯定的に自分の不安の中に溶かして、少しずつ彼の存在を受け入れ始めていた。今日子も彼を受け入れる決心をしているようだ。今思えば、不妊治療から始まりケンジの話が決まるまで3年は経っていたのではなかろうか、ようやくたどり着いたこの機会を断る理由など皆無であり、長く苦しみ過ぎた私たちは、子を持つ
その日ケンジとは話すことは無かったが、彼の風貌や雰囲気は少し離れた場所からではあったが確認することはできた。しかし彼が一般的な子どもと比べ一体なにがどう違うのかというところまではよく分からなかった。少し暴力的な子どもの様な気もしたがその時はあまり気にもならなかった。行政の職員の話ではケンジは生粋の施設育ちで家庭というものを知らないそうだ。家庭を知らない?お父さんもお母さんも当然知らない。自分は裕福ではないが、一般的な家庭に育った人間として施設の生活が当たり前という事実は自分に
それから数日後、今日子は行政と連絡をつけ、某施設にはじめての面会に向かうことになったのだ。車中、2人で期待と不安を交えながらケンジについての想像を膨らまし、私達は町外れの施設へ向かった。暖かい日差しが降り注ぎ、時おり肌寒い風の吹く10月の午後であった。 施設で案内された小部屋で施設職員から今日は彼が遊ぶ姿を見学すると言うこと、彼はなかなかの悪ガキであることなどの説明を聞いてから彼の遊んでいる広場に案内されることになった。隣の棟から聞こえる子ども達の声と秋の日差しが混ざり合い
私たち夫婦は予定通りの時間と場所に少し早めに到着をしていた。これから見せられるであろうケンジ5歳の写真とご対面である。私の胸は高鳴っていた。ある程度の素性は事前に伺ってはいたが、やはり気になるのは顔や雰囲気である。自分たちに少しでも似ているとか、そういった事ではなくいわゆる好みである、美少年だとかそういう話でもなく、何というか愛嬌のある顔とでもいったら良いのか、言葉では伝えづらいが、シンパシー的な直感的な何かを感じる事を期待していたのだ。 トントン、ノックの後、職員3人が深
子どもとの触れ合い、施設への訪問、まさか自分がこのような道をたどるとは。人生いろいろです。ある日帰宅すると今日子から私達夫婦に養子の話が行政からきたというのである。つまりは、お宅らに子どもを紹介するから写真を見に来いというのだ、今日子は素直に喜んでいた。私は喜ぶと言うより不安であった。それは単純にその子の容姿、素行、性格もろもろが気に食わなかったらどうしようかという不安であった。我が国の現状の行政のシステムではこちら側に子どもを選ぶ権利がないというか人権問題なのだろうか、性別
今日子につれられ再び私は施設に体験をしにやってきた、今日はどうやら幼稚園ぐらいの子どもたち10人くらいの部屋で子供達と触れ合うらしい、施設に到着し部屋に案内されドアを開けた。次の瞬間、私達に気付いた子ども達数人が誰?と言いながら勢いよく走ってきて何のためらいもなく、私達に4、5人の子どもたちが激しく抱きついてきたのだ。私はかつてこの様な経験をした事が無く唖然としてしまったが、まるで餌に群がる池の錦鯉のような体当たりの彼らの歓迎?に少し笑ってしまった。彼らもまた愛情に飢えている
研修プログラムになっているのかは分からないが私は今日子につれられ、とある児童養護施設にやってきた。男女が分かれた建物には3、4歳から高校生くらいまでの総勢100人位が生活していた。私は男子の建物に入り、彼らの生活を体験する事になった。内装は生活感があるものの、正直我が家より遥かに綺麗で日当たりも良くなかなかの快適空間であった。ここで数名が暮らしているようだ、その日は土曜日であり中学生や高校生は施設の方々が作るお弁当を持って部活などに出ているらしく部屋には5、6歳の男の子と今年
そもそも私の周りには子供という存在が無く、子どもという生物と関わる機会もなかっためか、よくよく考えてみても、子どもの扱いに関しては初心者以下であり、ある意味未知との遭遇でありました。居住している各自治体ごとに里親になるための研修プログラムが用意されているとのことで、流石、心の優しい日本人、手厚いではないか。 ある日今日子につれられ初の講習を受けに向かったのでありました。私は当初、自分達と同様に不幸にも子どもを授かる事が叶わぬ夫婦が集まる会と思っていたのだが、単身の方や、割と
種の保存、生命の本能、全ての生物が子孫を残すのだろうか、しかし私にはそれができない。そもそも私の周りには40近くになっても結婚しない、できない?人しかおらず、子どもに触れ合う機会もなく街でみかける幸せ家族や無垢な子どもの笑顔ですら気にかけないどころか嫌悪感すら抱いていたような、そんな器の小さな冷たい人間でありました。子どもを授かった友人たちも一様になんだか別人になってしまったような、親というスイッチが起動したのだろう、多忙になり自然に疎遠になってしまっていた。養子を迎えるとい
養子と言う言葉は耳にしたことはあったが、現実問題として、一体何をどうすれば良いものか、私には到底見当もつかず困りはてたが、今日子はトコトン調べて色々な手段を私に教えてくれたのだ。何より私たちのように不妊治療を経験している夫婦には子どもを委託するという機会は色々と選択肢があるようだ。 とある病院では私達と面接の後、望まない妊娠(例えば、未成年や学生など)理由は多岐に渡るようだが、とにかく諸事情により出産後も子どもを育てる事が叶わない、彼女の意思のもと、多少の費用(あまり記憶に
不妊治療は3回目も失敗、残された受精卵はあと1つであったが、私たちは養子を迎えるという方向に動きだしていた。実子を迎えたいという気持ちは捨てきれなかったが、出来ないものは出来ないのである。私も真面目一筋で生きてきたわけではなく、特に若い頃は自分勝手に血の気のない小さな世界で偉そうに我が物顔で色々な人を傷つけ、迷惑をかけ、ひどく醜くい顔で笑っていたのだ。 因果応報 当然の報いである。 養子 里子 私にとっては全く現実的ではなかったが、不妊治療の泥沼から抜け出せるような気がし
不妊治療で疲れ果てた私は途方に暮れた。いっそのことどなたか精子を分けていただけないものか?しかも私のような平凡で不細工ではない、素晴らしい遺伝子の精子を。若い頃、顕微鏡で見た精子は白濁の海を優雅に泳いでいたが、彼らは何処へ。着床失敗、二度目も失敗。なくなっていく気力とお金、私は一体何をしているのか、何処へ向かっているのか、などとセンチメンタルしている私をよそに、強靭な意思を持ち合わせる今日子は新たな道筋をわたしに提案したのであった。 養子という選択。私の責任でこうなってしま
私の稼ぎは一般的なサラリーマンの平均年収ぐらいであるため、高額な不妊治療を何度も行う事は出来ず、誕生した受精卵を今日子に着床させる事は受精卵の数、すなわち4回のチャンスだけであった。卵を戻すだけとはいえ、今日子には本当に嫌な想いをさせてしまった。祈る想いで一つ目のグレードAさんを体内にもどし、一週間後に結果発表。結果は残念ながら未着床。帰りの車内で明るく振る舞う今日子に私はかける言葉が一つも見つからなかった。