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桜の季節になると思い出す人
桜の季節になると思い出す。
50回目の桜を見ることなしに逝ってしまった人のことを。
その人は、病院の白いベッドの上で白いレース糸を広げてひたすら編んでいました。
来る日も来る日も編み続けて、いつしか立派なレースのベッドカバーが出来上がりました。
初めて入院した日のこと
私が初めて入院した日。
彼女は隣のベッドで胡坐をかきながら抗がん剤で毛髪の抜けた頭皮を拭いていました。
「あら、こんな恰好でごめんねー。」
「でも、そのうちあなたもお仲間よ。」
と、再発での苦しい治療を受けているのに メチャメチャ明るい笑顔で言われました。
抗がん剤治療を受けて毛髪の抜けない人は全体の1割いるかいないからしいです。
「髪の毛が抜けると身体を洗うついでに石鹸で頭も洗えばいいと思うでしょ。」
「でも、ダメよ。頭はやっぱり毛がなくてもシャンプーで洗わないとダメ。あとでベタベタするから。」
と、アドバイスを受け、私も頭髪が抜け落ちた後もしっかりシャンプーを使いました。
回診のとき
私のところに回診にくる研修医が「ほかに具合の悪いところはないですか?」というので
私が「ありません。」と答えると、横のベッドからすかさず彼女が
「あら、あるでしょ。」とくぎを刺す。
え?なに? と首をかしげていると
「せ・い・か・く」(性格)。
私「(lll'□'o) ガーン!」
ブラックジョークで研修医の笑いも取るつわものでした。
しかし、そんな毒舌の彼女も私が治療のダメージを受けて苦しがっていると
代わりにナースコールをしてくれて看護師に
「こんなに脂汗流して苦しがってるじゃない。
冷やすなりあっためるなり何か方法ないの?!」
と自分のことのように訴えてくれるのでした。
見舞いは不要
「同僚や友人に見舞いには来るなって言っておきな。」
「特に同僚は義理で一度は病院に顔を出さなきゃって来るけど、退院したあとの快気祝いひとつも大変なんだから。」
「来たら来たで談話室に行かなきゃならないし。」
なるほど。
もし逆の立場だったら「義理で一度は」見舞いに行っている人です、私。
実はそれはとても病人にとって迷惑な話なのだと知りました。
特にわたしたちの病室は治療で白血球が減少している患者たちの集まりです。
外部からの細菌が少しでも入り込んだら厄介なことになりかねません。
この話を受けて、退院するまで私も主人と母以外の見舞客は断ることにしました。
彼女は通院治療の時から含めて病院にいるのが長かったので
同病患者のお友達(本人はただの同病ってだけで友達じゃない、と言っていた)がすごく多く、別の病室からも点滴の針を刺したままガラガラと遊びにやってくる患者たちが後をたちません。
体調のすぐれない日をのぞいては朝起きてから必ず別室のNちゃんと院外散歩へ出かけ、朝イチから開いているパン屋さんで焼き立てパンを買ってきてはたまに私にもおこぼれをごちそうしてくれました。
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直下エレベーターの恐怖
「夜中にバーンって音がしてエレベーターホールのオレンジ色の厚い扉が閉まるとき、地下3Fにエレベーターが直通になるときなんだよ」と教えてくれたのも彼女です。
地下3Fとは霊安室のあるフロア。
つまり急変して亡くなった患者さんが出たときは他の患者さんに見せないようにエレベーターが直下するらしいのです。
そのエレベーターには乗らないようにしようね、と言っていたのだけど
1年半の闘病生活ののち、脳に腫瘍が転移して翌年の3月桜の開花を見ることなしに彼女は他界されました。
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彼女の快活な笑い声は今でも私の頭の中でこだまします。
しんみりするな、と怒られそうで墓参りにも線香をあげにも行きませんでした。
でも、彼女の優しさや強さは今も私の生きる支えです。
死んでいった多くの病友の分まで精一杯、生きていくのが私のつとめと
春になると気持ちを新たにするのでした。