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土砂日記 七 あらゆる1月9日について
1999年の10月6日に生まれたぼくは、2025年の1月9日のきょうまでただの一日も欠かさず生きてきた。そのうちのどれか一日を、ぬけぬけ過ごさずに済ませたとか、うっかり過ごしそこねた、ということはないのである。徹夜明けでほぼ丸一日眠りこけていたり、極度の眼精疲労でなにをみても頭がぼんやりした日々は数えだしたらきりがないが、とはいえあの一日一日ぶんぼくは若いわけではなく、10月6日になれば正確に齢を一つ重ねている。
生後3ヶ月でむかえた人生初の1月9日はなにをしていただろう?
ノストラダムス翁の世迷い言から解き放たれて晴れがましい顔の大人たちにつられて、にこにこと笑っていたか。たしかそのときは手術で入院していたはずだからまっしろな院内で。もしかすると術後の痛みに顔を歪めていたかもしれない。なにかしらの表情を浮かべていたことは確かである。生後間もないぼくを抱きあげた父方の曽祖母と祖父がこの正月に相次いで亡くなったと聞いた憶えがあるので、呑気にノストラダムスどころではなかったかもしれない。
その一年後にも、ぼくは1月9日を迎えている。
カエルのかたちをした大きな人形カピのそばでごろごろ寝っ転がりながら「ああまた1月9日だ」と思ったかどうか。いまは実家の母の枕元に佇む、日に色褪せたカピが、1歳のぼくの息や唾、汗を吸っていたことを想う。
翌年2002年の1月9日は、おそらくぼくの妹が生まれる間近なので、なんとなく身辺が慌ただしたかったのではないか。仙台市から、同じ宮城県内の海の見える田舎町に移り住んだのはたしかこの頃。昇りにくい階段を慣れない歩行技術でよじ登りながら、ひとしきり迎春ムードの落ち着いたテレビの音を遠く聞いていた。あの日はどんなテレビが流れていたかわからないが、とはいえ何かしら流れていたことは確かだ。
つぎの年、人生で初めて1月9日を迎える妹を自慢げに見下ろす兄のぼくは、3歳になった。耳にすれば泣きわめくほどに強風が苦手だった。正月の風の唸りはすさまじく、保育所の校庭に立つ坊主頭のぼくを釘付けにし、圧倒した。同級生の双子の姉妹にさんざからかわれ悔しかった1月9日だったろう。
一年経てば恐怖に慣れるなどということはなく、4歳は4歳で風に泣いた。どんな恐怖も永遠につづくものだと理解していた。母譲りの冷え性でいつまでも温まらない布団にくるまって、風に耳を塞いでいた。風が吹かない日は、うってかわって暴君のように保育所で振る舞い、思いつく限りのシモネタと悪口を放っては職員の手を焼かせた。
5歳の1月9日は、正月ごとにやってくるお年玉の法則に気づき、つぎが待ち遠しくなる頃合いである。父方の祖母はここぞというときに定額1万円をおさめた金一封を握らせる。母方の祖母が採ったお年玉の方式は掴み取りで、そのときの手のひらのコンディションが新年の吉凶を占う。妹はぼくよりも小柄なのにも関わらず毎年欠かさず兄を圧倒し、泣かせた。保育所を転々とするうちに親友のまさや君と出合ったのは5歳の冬だったか。
6歳ともなると、小学校入学が近いわけである。
その年も律儀にやってくる1月9日とコタツのなかで再会を喜ぶのも束の間、入学に向けたなんやかやで周囲が浮き足立つのを感じていたか、どうか。季節ごとに風邪を引く、いまも変わらない体質は、幼少期、殊に顕著であり、いやなタイミングで高熱を患っていたかもしれない。前年の誕生日に父からゲームボーイアドバンスを買い与えられて以来、任天堂におんぶにだっこだったので、風邪を引いていようがいまいがゲームにうつつを抜かしていたことは想像に難くない。
7歳、小学校1年目もだんだんこなれてくる頃にまた1月9日は来た。
クリスマスプレゼントに贈られた攻略本をぴったり横に侍らせて「おいでよどうぶつの森」を隙あらばプレーしていた。寝ても覚めても家具の配置と、そのための資金調達のことばかり考えつづけ、妹とともに白紙に綿密にプランを書き出してはうんうん検討を重ねていた。それと、羽毛布団に足を突っ込みながら妹と人形遊びを楽しんだのは、おそらくこの年の冬までである。仙台市の公式サイトによれば1月7日で小学校の冬休みが明けるそうなので、9日にはゲームどころではなく、休み明けの奇妙な緊張と弛緩を噛み締めていたか。ぶおーっとものすごい音で赤熱するストーブに背をあたためられ、新年に向けた抱負を熱く語る先生の話をぼんやり聞いていた。
8歳。2008年の1月9日。そろそろ餅を食べあきるタイミング、妹に今年も掴み取りで負けたことを悔やむのに飽きるタイミング。「ナニコレ珍百景」で特集されていた健脚おばあちゃんランナーに触発されて早朝ランニングを始めたのはこのときだったか、もう少しあと、中学校からだったか。
2009年は「大乱闘スマッシュブラザーズX」「トモダチコレクション」「ドラゴンクエスト9」といった、ぼくの生活の支配者の位に君臨することとなるゲームが続々と発売される年だが、それを待つまでもなくまさや君たちと「デュエル・マスターズ」に日夜励んでいた。コタツに足をうずめて勉強が捗るはずはなく、宿題の処理もそこそこにカードの山をじぶん好みに編集したりコロコロコミックを読んでいた。いつまでも片付かないクリスマスツリーを横目に上がった寝室で、死の恐怖と宇宙の広大さを想像してはぶるぶる震え、泣いていた。片目の視力ががた落ちするのは2009年の正月のことだと記憶している。
2010年、先に挙げた名タイトルのゲームが誕生日やクリスマスごとに手元に揃うにつれ、1月8日も1月9日もそこまで変わりない生活が始まった。10歳ということでこの月に「2分の1成人式」が教室で催された。積まれたミルク缶につかまって立ち上がる幼いぼくの写真がスクリーンに大写しになり、赤面したのを思い出す。あと10年で20歳になることを考えて、あっという間だと思った、というのはおそらく2025年のじぶんの性急な創作だ。2009年の12月初めに黒猫が家族に加わって、猫アレルギーなのにうまくやっていけるだろうかと心中穏やかでなかった。
来たる年の1月9日はなにをしていたのだろう。たまに熱が出たといって嘘をつくほかは登校拒否したことはないので素直に学校に行っていたと思われる。風の音に泣くことはなくなった。ゲームもコタツもない極寒の外界に出向く必要に迫られることをむしろ悲しんだ。このときの正月を思い返すと、コタツに首まで入って単行本の『ケシカスくん』を読み込んでいたじぶんが真っ先に思い出される。まもなく大地を揺るがした震災は多くのものを破断したがやっぱりつぎの一日が巡ってくることは妨げず、ぼくにおよそ365日おきにいちどの1月9日の到来を許した。
こうも幾度もなく1月9日を迎えていると小学校を卒業するほかなくなる。まだ早いかなと敬遠してみても中学校の黒々した学ランを首に当てがわれる。済むなり、卒業アルバムの写真を撮る。頬の内側を噛んで笑いをこらえる癖があったので、この1月9日はさぞ口内が痛かったろう。誰しもマッシュルームと喩えたくなる髪型で校庭の遊具に寄り添い、陽光と砂埃に目を細め、不細工にはにかむぼくの写真が容赦なく紙に焼き付けられてしまった。
2013年は東京五輪招致決定の年であるとともにアニメ「ダンボール戦機」が放映されていた年だった。毎週日曜日は朝5時半に起きてこの作品を観ていた。7時起きにも苦しんでいるいま思えば驚異的な習慣である。どんな習慣にも人間慣れるものである。脳内で語彙がビッグバンを起こすのを止められず、朝早くランニングしながら好き勝手に言葉をむすびつけては口にし、実験を繰り返していた。白い息を吐きながら、駅伝選手の走りを意識して駆け抜けた正月だった。お年玉の掴み取りに相変わらず敗れて祖母の胸で声をあげて泣き、定額支給になったのはおそらくこの年で、あまりの恥ずかしさを払拭するためにもぐんぐん速度を上げて走っていたように思う。
2014年は——と書きつけたところで2025年の1月9日が去っていった。noteを書いていたことを来年以降のじぶんは憶えているだろうか?
ぼくが生きた全ての1月9日のうち半分まで書いて思うのは、どれだけ過去が曖昧に潤んでいるかである。通っていた小・中学校にはまさや君ほか多くの同級生がいて、いくら反抗期とはいえ一言二言交わしたり、やりとりしていて、ゲームやランニングの習慣だけに回収しきれない個々の「1月9日ぶり」があったはずなのだが、目を凝らしてみても茫として掴めない。とはいえあの日もあの日で生きていたことは真理であり、さまざまな状況証拠を突き合わせれば高精細な1月9日の映像を復旧できるような夢想を描きたくなる。どんなテレビが流れていたか、どんな天気だったか、朝昼晩どんな食事だったか、誰と会ったか、なにを言われたか……つぎ実家に戻ったらコタツに腰を落ち着けるより早くあのとき配られた給食の献立表を探しはじめそうだ。
2025年1月9日は。
年末年始ぼくを襲いかかったインフルエンザが乱しに乱したバイオリズムを反映して13時に目が覚めた。最近の愛読書である『天才柳沢教授の生活』6巻を読み、エンジンがかかったところで皿を洗う。昼食は料理家ウー・ウェンさんのレシピに則って麻婆茄子。夕方、猛烈に降りしきる雪のなか現金をおろし行ってみたかった雑貨屋まで歩くも早めに店じまいしていた。宵越しの金は持てない性分なのでスーパーで食材を買い込む。4400円ほど使う。夕食をこしらえるよりもnoteが書きたい気分のため、バンホーテンのココアを飲んだのち母が送ってくれた紅玉と干し芋をつまむに留めた。そうして時はすでに2025年1月10日である。
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