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ボカロ調声方法の会 01 「人間の歌じゃダメなの?」

はじめに

こんにちは、IMOです。
「ボカロ調声方法の会」シリーズの続きです。
タイトルは01ですが、00から始まっているので今回は第2話です。
今回は「調声の哲学」について話そうと思います。
前回は哲学に蓋をして、具体的な内容を語りましたが、具体例を知ったところで「やりたいこと」が無ければ何もできません。
今回は、以下の4つの項目で語ります。

  • 調声とは何か

  • 調声は必要なのか

  • 人間の歌じゃダメなのか

  • 調声の哲学

以上です。では本編に入ってまいります。

ここから内容

調声とは何か

散々調声、調声と言っていますが、調声とは何かです。
まず読みは「チョウセイ」です。
ニコニコ動画等でよく目にする「神調教」や「良調教」タグに含まれる「調教」という言葉も、この世界では同義です。
IMOは「調声」の方が「声」が入っていて何のことか分かりやすい気がするため「調声」の方を使っています。
あと企業さんによっては「調整」ということもありますし、クリエイターさんによっては、独自の呼び方をしていたりもします。
では、具体的に「調声」の定義を考えていきましょう。
基本的な概念としては、
ボーカロイドの声で出力される歌詞を聞き取りやすく調整すること
ボーカロイドの声で出力される旋律に表現力を加えること

だと思います。
その作業を、エディター上でやるのか、ミックスの段階でするのか、両方なのかは人それぞれですが、どれも調声の範疇です。
※ここでの「ボーカロイド」は広義とします。
※「VOCALOID(ボーカロイド)」ならびに「ボカロ」はヤマハ株式会社の登録商標です。

調声は必要なのか

誰もが一度は通る悩み、「調声は必要なのか」です。
答えは「必要はない」です。
調声師の仕事もしているIMOがこんなこと言っていいのかという感じですけど、本当なので仕方ありません。
ただし、このままでは本来の意味が伝わらないので、解説をいたします。
このあと「調声の哲学」で深い内容をやりますが、調声や音楽、人間そのもの、全てが美学によって成り立っています。
その美学が好みを形成します。音楽の本質は「好きなことをする」ですので、好きならすればいいのです。そこには優劣も存在しません。
「必要」は「必ず要る」と書きます。調声をするかしないかは、その人の好みでしかないので、したい人はすればいいし、しなくていい人はしなくていい、ということで「必要」という言葉にはなりません。
そう、ここにきてただのレトリックです。
あ、IMOの曲で「My Rhetoric」(マイ レトリック)という曲がありますので、聴きやがれください。
そして「この人の調声が好きだから」や「調声したいけど自分では手が回らない」ということもあり「調声師」が存在するのです。

人間の歌じゃダメなのか

これはよくある話題ですね。これも音楽や芸術の本質を知っていれば、答えは簡単です。まぁ意外と今の世の中本質が蔑ろにされますんでね、しっかりと解説する必要もあると思います。
結論は「ダメだと思えばダメだし、いいと思うならいい」です。
そもそも「ダメ」って何なの、となります。
「良し悪し」というのは先人の「好み」でしかないのです。先人は自分の「好み」を基に「ダメ」とか「良い」という言葉を使っているだけです。その言葉に縛られて現代では「良し悪し」というものが基準かのように感じてしまいます。現代でも「好き嫌い」で音楽をやっていいのです。
先人の言葉遣いを指摘しているわけではなく、先人の言葉の意味を深く考えようということです。
あまりにも哲学的になりすぎたので、エンターテイメント的な論破形式を使い、解説します。

相手がボカロ文化に敵対心を持っている場合
相手 : 「あんたそんなにボカロボカロって、人間の歌じゃダメなの?」
自分 : 「ダメって何を以てダメとするの?あなたの好みであって良し悪しではないよね」
論破

相手がボカロ文化に興味を持って純粋に疑問を持っている場合
相手 : 「調声大変そうだけど、人間の歌じゃダメなの?」
自分 : 「ボカロなら、自分の好みと経験を100%実現できるんだ。」
沼に引き込める

相手が音楽に詳しい場合
相手 : 「どっちも手間の量は同じくらいじゃん、人間の歌じゃダメなの?」
自分 : 「例えばサックス奏者に、クラリネットじゃダメなの?と質問しているようなもの。好きだからそっちを使うっていうだけさ。」
論破

まあ論破という強いワードを使って遊んだだけで、ただ好みを主張しているだけです。
ひろ〇きさん風に言うなら、
「それは、ただのデータですよね?あなたの感想を聞かせてください。」
です。
クリエイターは音楽で「好き嫌い」を表現し、聴き手も「好き嫌い」で感想を持つ。「好き」と思う人が多ければ、結果論で偶然お金をもらえるようになる、それだけです。「良し悪し」ではありません。いつの時代も、数字が取れなくて音楽をやめる人は多いです。それは「好き」だと思った人が偶然少なかっただけで、その音楽が「悪かった」わけではないのです。そもそも音楽は数字をとるためのものではなく、「好き嫌い」を表現するためのものです。「音楽ができた」それだけで幸せなのです。その後の結果で勝手に不幸だと思い込む必要はありません。これが本来の音楽の姿です。

もしも、自分の「好き」が詰まった音楽を、ひとりでも「好き」と思って聴いてくれる人がいたのなら、最高だと思いませんか?
リスナーさんへの感謝は、永遠に忘れることはありません。

調声の哲学

ここまでの内容で調声の哲学どころか、音楽や芸術の哲学にまで首を突っ込んでしまいました。話す内容がありません。
ここで改めて語る内容となると人間の哲学になりますが、やめておきましょう。文章では不可能です。
1対1で相手の理解度や反応を確かめながらでないと、本来の意味が伝わらず大変なことになってしまいます。(同調させるのではなく、本来の意味を伝えたいだけです。)
まぁ「調声の哲学」は上の3項目で網羅できたと思いますので、ここでもそれが結論といたします。
なんと締まりのない結論なのでしょうか。
でもこれがIMOです。

今回のまとめ

ここでまとめる内容もなくなってしまったではないか。
一体どうしてくれるんだ。

改めて言うなら、自分の「好き」な方を選択して調声、音楽をしよう!ということです。

自分語りパート

今回は哲学を語りました。
こういった哲学は、IMOの大学生時代のサックスの師匠であり音楽の師匠であり、IMOが特に尊敬するアーティストの一人、川嶋哲郎氏との対話によって行き着いた境地です。
川嶋氏の門下は哲学好きが集まっていることで有名でしたが、IMOも川嶋氏からは「君も相当な哲学者だな。」と言われておりました。
川嶋氏も自身のYouTubeチャンネル『川嶋哲郎の哲学的「JAZZは最高!!」』で哲学の一部を語っておりますので、興味がある方は覗いてみてください。
川嶋氏も数字のためにYouTubeチャンネルをやっているわけではありません。その本心も含めて、最高にかっこいいです。
今回のIMOの記事は、言葉が足りていなかったり、理論に穴があったりするかもしれません。正直語りきれていない感じはありますし、ここでこういった反論が来るだろう、というのも予想ができますし、それに対する自分なりの答えもあります。ですが、ここではそういった余地も残しておきたいと思います。ぜひ皆さんの哲学と美学と照らし合わせて、遊んでみてください。
次回はまた具体的な調声方法に戻ってやっていきたいと思います。
ぜひ「好き」な調声を選択して、ご自身の音楽に生かしてみてください。
お疲れ様でした。



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