今回は、自分の問題点を指摘されたときに 抱く感情がいっぱいあったってお話 そもそも私はかなり打たれ弱い 指摘を受けたら 雷に打たれたようなショックを受けるし 落ち込んでないように見えて (いやめちゃくちゃ落ち込んでるように見えるかも)内心しっかり落ち込んでる そのことについてぐるぐる考えすぎて ネガティブループから 自力で抜け出せないこともしばしば しかも面倒なことに 落ち込む期間が長いんだ私は 少しずつ小さくはなってくるけど ずーーーっと心に残って ちょっとずつズキ
どれだけ自分の想いを伝えても いろんな理由で伝わらない人がいる 伝わらないってわかってても 私は伝え続けるんだ 自己満だってわかってるけど 決して「届かなくてもいい」と思って 伝えてるわけじゃない 甘い考えかもしれない 届かないと改めて実感して絶望することもある それでも「届け!届け!」って必死に願って 「きっと届いてる」って僅かな望みに 私の想いを託してるんだ それでたまーに2%くらいの確率で 「あ!届いた!」って感じられる時がある その瞬間がたまらなく幸せで
私の大切な人が死んでしまったら きっと悲しいなんて言葉では言い表せない。 私はその人がいないこの世界で 生きていくことを諦めたくなるほどに 絶望するかもしれない。 うん、想像したくもない。 でも、私にとって 「人の死」と「自分の死」は まったくの別物で。 私はこれまでの人生で漠然と “死にたい” と思ったことはない。 けど、 “いつか”死にたい と思ってる。 いつか“必ず”死にたいんだ。 そんなの当たり前じゃんって思うよね。 いつかみんな死ぬんだか
「仕方ないこと」だと 頭では割り切ってる でも心では割り切れてない そんなことがたくさんある 「仕方ない」と諦めるほうが簡単な時もある 「仕方ない」と諦めることが正解の時もある 「仕方ない」と諦めなければいけない時もある それでも、どうしても、 「仕方ない」で片付けたくない時がある 子供だなあと思う人がいるだろうし 自分の力ではどうしようもないという現実を 目の前にして無力さを痛感することも たくさんある でも、その歯痒さとか虚しさが 私の原動力になることもたく
💘 そう、ちょうどこんな感じのマーク 「ハートを射止める」 「ハートを射抜かれる」 そんな表現をする 胸が高鳴ったとき 強く心惹かれたとき きゅんとしたとき 恋に落ちたとき そんな意味を持つ「💘」を見て 考えたことがあった 「傷つきやすい人」 という言葉を耳にすることが増えた気がする 私はこの言葉に違和感を覚える なぜかと言うと 「傷つく」こと自体は みんな同じなんじゃないかと思っているから 違うのは「傷つき方」 そこでこれを思い出す「💘」 心に矢が刺
とても当たり前なことだけど そんな「当たり前」こそ 忘れちゃいけないことだと思ってる この世には誰一人として 同じ考えを持つ人はいなくて 親子や兄弟などの血縁者でも どんなに付き合いの長い友人でも どんなに愛し合っている恋人同士でも 価値観は全員異なる もれなく「全員」 「十人十色」とはよく言ったもので 同じ色を持つことなどあり得ない だからこそ 自分と違う価値観を持つ人を 排除しようとしてはいけない その人の世界を土足で踏み荒らしてはいけない 「否定」してはいけ