綿矢りさ『履歴のない妹』が提起する、女性を取り巻く社会的課題
京都芸術大学 通信教育部 文芸コース科目「現代小説の前線」スクーリングレポートです。綿矢りささんの短編小説『履歴のない妹』について書きました。
評価:90点
綿矢りさによる短編小説『履歴のない妹』は、結婚を間近に控えた妹とその姉による対話を中心とした作品である。本レポートでは、五枚のヌード写真を中心とした過去のエピソード、ふたりの会話や心情から、女性を取り巻く社会的課題について読み解いていく。
物語の中心となる五枚のヌード写真は、妹が大学生だった頃に妹の元恋人によって撮影されたものだ。そこには妹自身だけではなく、もう一人の女性も同じように裸で写っている。それらの写真からは、妹は若い頃にクリエイティブな嗜好を持つ男性と付き合っていたこと、彼とは全裸でもカメラの前でリラックスできる信頼関係にあったこと、他の女性も交えて撮影するほど性に対してオープンな姿勢をもっていたことなどが伝わってくる。
その写真を目にして、姉が真っ先に頭に思い浮かべるのは後悔だった。それらは姉の意識の扉を開き「キメ顔の写真、友達との写真、服を着た写真は数あれど、二十代の裸体の写真を残しておかなかったのを、私は少し後悔していた」(1)ことを思い起こさせる。姉は過去に何度か自分でヌード撮影を試みているが、「どうやっても綺麗に撮れず」(2)断念していることが回想によって語られる。しかし、彼女には当時、自分の裸も心情をもさらけ出して頼めるような関係の相手はいなかった。この後の姉の言動から伝わってくるのは、もう失ってしまった若さへの憧憬だ。美しい身体や奔放な恋愛は若い女性の特権であり自分にはもう手遅れだと諦めて、まるで過去の妹を自身の後悔の代替とするかのように、五枚の写真に固執していく。その青春の思い出への強い羨望は、姉の若さへの執着を表しているようだ。
その一方で、当の妹は写真を捨てようとしていて、最後には自ら細かく破いてしまう。写真に写っていたもう一人の女性との浮気がきっかけで別れてしまったという撮影者の元カレのことを「私には引き裂いて腸まで見たいなんて、芸術家っぽいこと言ってたくせに、ほんとの頭のなかは三文エロ小説みたいに単純だった」(3)と、結局は女性たちを性の対象としか見ていなかった彼に幻滅したと語る。
このエピソードから想起させられるのは、アートの世界でのジェンダー不均衡だ。東京女子大学女性学研究所准教授の竹田恵子が語るように、歴史的に芸術における主体(見る側・創作する側)は主に男性が担い、客体(見られる対象)は女性が担ってきた。匿名のアクティヴィスト集団であるゲリラ・ガールズが1989年にメトロポリタン美術館に向けて掲げたポスターに「女性がここに入るには、ヌードにならなくてはいけないの? 館内の展示作品のうち女性アーティストによるものは5%以下。それなのに展示されているヌード作品の85%は女性を題材にしている」と書かれていたように、ヌード芸術の多くは女性の身体をモチーフに、男性によって創作されている。
そういった芸術界の歪みを背景として妹の発言を読み解くと、見られる対象となった彼女がなぜこの写真と撮影者にこんなに強い拒否反応を示すのかが見えてくる。彼は芸術としてヌード写真の価値を語りながら、結局のところは自身の欲望を投影していたに過ぎなかった。
『履歴のない妹』と合わせ鏡のように短編集「意識のリボン」に収録された『履歴のない女』では、主人公の姉が結婚して苗字が変わったことを「別の人間」(4)になったようだと語る場面がある。選択的夫婦別姓制度が話題にのぼるようになって久しいが、結婚することで姓が変わるというイベントは、望むと望まざるとにかかわらず日本に暮らす少なくない女性が直面せざるを得ない。
若さや身体のラインを過剰に評価されることや、見られる存在として男性に消費されることも、同じように多くの女性が経験することだ。ここには自身も女性の表現者である著者の問題提起が隠れているのではないだろうか。これらの点から『履歴のない妹』は、日常的な姉妹のやり取りを通して、女性の人生を描いた社会的な作品であると考えられる。