コラム:科学と哲学
前回のコラムでは科学においても非科学においても、目的と手段の重要性を記した。さて、科学という言葉はよく使うのだが、そもそも科学とは何なのか、というのは人類が昔から扱ってきたテーマである。また、そのテーマ自体は最早科学ではなく哲学や宗教の世界に足を踏み入れている。
そもそも科学と哲学は深い関係にある。自然科学分野において、博士号を取得した場合、英語圏では専攻分野に関わらずPh.D.という称号になる。これは過去のコラムでも書いたが、ラテン語に由来して「哲学博士」の略であり、リベラルアーツの精神を重んじた伝統と言える。同時に、これは科学者の本質を捉えた名称でもあり、優れた科学者を哲学的な素養の有無によって規定したとしても大きな問題は無い。少なくとも哲学的な素養の無い研究者がPh.D.を名乗るのは言語道断である。
さて、今回のコラムは下記の記事を見掛けたので書いてみたというのもある。
記事にもあるが、近代哲学において科学と非科学を分ける上で利用される代表的な哲学的思想がカール・ポパーの提唱した反証可能性である。これを簡単に言えば、「ある命題が合ってるか間違っているかを検証する事が出来る」ことが科学的な議論の必要条件であるという事だ。つまり検証できない理論は、一見科学的であっても科学ではないという事だ。
検証できないテーマとは、例えば「神は居るか?」とか「死後の世界はあるか?」という命題である。これは、科学的には正解がある命題の筈である。答えとしても主観的な科学的思想に基づけばどちらも存在しない筈である。だが、この命題を科学的に検証する事が基本的には出来ない。それ故に、これは科学的な議論になり得ないのだ。但し、もっと深く考え始めると、そもそも神や死後の世界の定義は何なのか?とか、その定義に応じて検証の可能性とは何なのか?とかいう話が出てくるし、そのたびに反証可能性が無いという命題に反証可能性が無いのか?という循環に陥るので、簡単ではない。まあこういう事を只管考えるのが哲学的とも言えるのだろう。暇人がやると言われても仕方ない。
本題は、検証できないからと言って、それは科学的ではないという決め付けでいいのかという点である。私はこの点に賛同しない。つまり、反証可能性は科学と非科学の境界ではないと考えている。それを実験的に証明出来るかどうかは別として、科学的真実=科学的に正しい答えというのは理論的に存在する筈だからだ。つまり、科学という概念をどの様に捉えるかに依存して、この命題の答えは変わってしまうという事になるのだろう。科学をあくまで実践的・実験的なものと捉え、役に立つ形で実証できるもののみが科学であるとするのか、実証できなくてもそこには厳然とした科学的事実が存在すると捉え、究極的な真実として追及するのか、その姿勢によって科学という概念に対する答えが変わってしまうという事だ。つまり、科学というのはその答えが結局は哲学的なものに依存してしまう。言い換えれば宗教や信仰の様なものなのだろう。
ハッキリ言えばこの手の議論をする事に大きな意味は無い。結局は個人の価値観によって答えが変わってしまうからだ。私は科学的な真実を追求し、それに基づいた行動選択をする事が絶対的に正しいと確信しているが、それを他人に求める気は無い。どうせ無理だからだ。それが誰であれ他人同士は分かり合えない。科学的な真実を追求するという建前が同じであってすら、それぞれの立場や考えに応じて答えは変わる。それは昨今のパンデミックで大いに示された事であろう。だからこそ、大事な事は一人一人が科学と哲学をベースとして、自分で考える事を続ける事だ。何に依存して何を目的にどういう答えを出すのか、それが哲学であり、理論的に言って科学的な結論もそこに依存してしまう。存在する筈の絶対的な真実と、個々の結論が一致するか否かはその個々の持つ立脚点や能力、才能に依存するのであろうが、それを論じることに意味が無いというのが今の人類の限界であり問題でもある。この辺り、何を目的に生きるのか、そしてそれが個々に異なり、何を目指すべきか、というのは伝統的な哲学のテーマであり主流であるのだが、長くなるので語るとしても別の機会にしよう。大事な事は一人一人が科学と哲学をベースとして、自分で考える事を続ける事だ。