知的好奇心を満たすために学ぶ
日常に忙殺されるなか、見ず知らずの他人が書いた文章に過去の記憶を思い起こさせられることがある。
私の卒業した高校はいわゆる進学校。部活や学校行事が盛んなことも売りではあったものの、受験勉強もまた生活の一部であった。
アイルランド伝統音楽にのめりこみ、どうしてもアイルランドに行ってみたかった私は、アイルランド留学のできる、かつ家から通える都内の大学志望。目的も目標も、誰からもわかりやすいものだったと思う。
同じクラスのある女の子が、ある国立大学を第一志望としていた。その学部にあまり関心がなかった私は、どうしてその大学のその学部に行きたいのか本人に聞いた。そこで言われた言葉が、「知的好奇心を満たすため」。本題のタイトルである。
なぜだかわからないが、ハッとなり、彼女のことを尊敬するきっかけになった言葉だった。そのことを特に伝えるわけでもなく、高校卒業後彼女には会わなくなったのだけれど。
目標を決めたら全力で突っ走り、特に挫折することなく目標をつかみ取って生きてきた18歳の私にとっては結構、衝撃的というか、心に響いた言葉だったのかな。
高校受験。大学受験。留学。就職。
目標に向かって頑張ることを善として生き、培ってきたアイデンティティーは、結婚し家族で外国に住むというチームプレーが必要になったときに、「頑張らなければならない」という呪縛のようなものになった。何かしていないと不安。何か勉強していないと。何も生み出せていない。何の役にも立っていない。何を目標にすればよいの?
夫の仕事の関係で国をまたいでの引越しが続き、そのたびに私は新しい国で一から仕事を探す。コネなしの海外就活は当たり前だが厳しい。過去の自分の選択を顧み、自分の学歴を見て、もっと将来に役に立つ=仕事が見つかりやすい分野に進学していればと何度思ったことか。
(あとは、もっと早く楽器を始めていればなど…まあそれは別の機会に)
過去の自分が一生懸命考えて選んだ道のはずなのに、現状と照らし合わせて稚拙だったと考えてしまっていた。そんなはずじゃないのに。
そこでふと思い出された言葉。「知的好奇心を満たすため」。
そうか、そんな自分本位な理由でいいのか、と、肩の荷が下りた。
確かに、自分の好きなこと、好奇心があることじゃないと物事なんて続かない。そういえば、お給料の良い仕事も、業務環境が良い仕事も、面白みがなくなった途端、続けようという気力がなくなったんだっけ。その時々に感じた違和感は時間がたつと忘れ去られてしまいがちだけど、それをなかったことにせず向き合っていくことで、自分が本当に仕事として楽しく続けられるものが見つかるのかもしれない。
私の通っていた高校には、画一的に見えて個がはっきりしている人々が在籍していたと思う。関係は途切れてしまったけど心に残っている人達のことはまた後日書きたいな。
はな
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