ブンゲイファイトクラブ4 決勝感想
草野理恵子さん『言ったり思ったり詰まったり』
よう分からんけどなんかいいなと思いつつ、キャベツ人間の顔を想像しながら読み進める。足の裏に感じる青虫の感触、潰れて溢れる体液がリアル。
「まあいいかと思うために」「やりすぎないといけない」という言葉にひっかかる。何をそんなに、まあいいと思わねばならないのか。
キャベツの脚はキャベツなのだろうか。脚がキャベツでできてるのだろうか。腐るのも私の勝手、雨に濡れるのも勝手。穏やかな景色と不穏な感情が共存する世界。
耳を切り落とし、耳を欲しがり、花に血をかけて、友達にあげようとするキャベツ顔。これは冒頭の私? 別人? 正直言って何のことか分からない。ただの自傷行為にも思えない。各章の私or僕は別人か。
意味不明なやり取りをただ受け入れて延々と繰り返した末に、友達に選ばれる。それが嬉しくもあり、自分が嬉しいのをキャベツ顔が(びろんびろんの顔を揺すって)喜ぶのも嬉しいのか。
僕と彼女ということで恋人の話なのかと思った。荷物を持ってあげなかったために溶けた目鼻口を見て「穴 深くないんだね」とはどれだけ無神経な僕なのだろうか。しかも持ってあげればと後悔するのも随分勝手な気もする。とはいえ持たなければならないという価値観も正しいとも思えない。
しかし(ごめんねと言う)で乳母車にのせられていると、赤ちゃんと思って声をかけてきた人が絶句するシーンに、これは母子の話なのではないかと思い至った。子は既に赤ちゃんではないが乳母車に乗せられている。それは歩行が困難な体ということだろう。
「急にやめちゃうのが楽しくて仕方ない」に、心からの楽しさでなく、悲しき諦めを感じてしまう。たくさんの「ごめんね」、そして最後の「時限爆弾」。いつ爆発のような発作を起こすか分からない、ごめんね。そんな子を愛す親の眼差しに思えてならなかった。
かなり先入観に歪められた読みだろう。本来、作品外に知り得た作者の背景を前提に読むというのは、研究者でも批評家でもない一読者の態度として不遜にも思えるし、ともすると失礼に当たるのではないかとさえ思える。しかしこの詩が作者の日常的にtweetする息子さんとのやり取りの延長にあることを思えば、どうしても勝手に作者の背景を重ねてしまって、目頭が熱くなった。
幸い作者から自由に読んで良いとのコメントを頂いたので、勝手な解釈ではあるが思ったままの感想を上げることにした。
冬乃くじさん『健康と対話』
これまた力を抜いてきたな。いや手を抜いたではなく緊張がほぐれた感じ。
1,2回戦は技術は完璧なのにどこか緊張が抜けきれず、ぎこちなさが感じられた印象だったが、今回は良い具合にリラックスしたと思われる。
「大腸との対話」という一風変わった、しかしあり得そうなことをクソ真面目に行う姉妹の面白さだけでなく、ストレスが原因、心因性と言われる生活環境が話を深めている。
職場にいる四人のクソには、下剤を投げつけるかのごとく苦情を吐き出せば通りも良くなるのかもしれないが、おそらくこの姉は文中の口調とは裏腹に、対人関係においては我慢をして「腹に溜め込む」性格なのだろう。
そういった性格の人間にとっては、不満をぶちまける方がむしろ下剤の副作用のように苦しいことだってあるのだ。
妹の「人間ではないのかも」「プラナリアではないか」「熊だった」がもし妹の本気の妄想だとすれば、それに付き合う(そしておそらくこれまでも付き合ってきた)姉の心労はいかほどだろうかと労いの念を抱かせる。しかし一緒に熊踊りをするなど、コミカルで軽いノリもあって、おそらくは妄想と言うよりは自覚的な空想もしくはメタファーであり、深刻さを感じさせず一風変わった面白い妹という印象を与えてくれる。
本来は自分で意図的に緩めることができるはずなのに緩まない括約筋が、職場のクソどもにねちねち言われながらもぶちギレることもできず、不本意ながら我慢することを選んでしまう自分と重ね合わされが、悔しさやもどかしさを表してるように感じた。
その括約筋を緩める物語はすなわち、絶えず緊張してストレスに曝されている自分をリラックスさせる、自己治癒の物語なのだ。
社会から隔絶され守られた二人暮らしの家という空間は、真に安全で安心できる場として機能している。それはあたかも便所という個室が、他者の目を逃れて極度にプライベートな行為を行う守られた空間であることにも繋がりそうだ。
文章の構造に目を向けると、「二人の家=便所」、「姉妹の会話=括約筋との対話」という構造の中でさらに妹が自分の括約筋と、姉も自分の括約筋と対話してそれを緩めるというのが二人のセルフケアであるというメタ構造になっているのだろう。
子供の頃の傷付きも絡めてるとこはインナーチャイルドの癒しも示唆しているのかとも読めるがそこまで大風呂敷を広げているわけでもないのかもしれない。
以前、最近の子供達はわたしが幼い頃ほどには排便が揶揄の対象となっていないと聞いたことがあり、なんて素晴らしい変化なんだと感心したことがあった。本来健康の指標としても重要な排便が、あまりに隠すべきものであるのはよろしくない。そういう観点からも、下ネタではなく下のネタを扱った本作品の価値は大きい。
この作品自体が前二作と比べて緩んだ感じもあって、そういう意味でも、「冬乃くじ、今ウンコ出たな(笑)」とも思った。 失礼……。