ブンゲイファイトクラブ4 Cグループ感想
奈良原生織さん「校歌」
時間経過について整理する。
作中の時間が新学期とすれば先生が逮捕されたという2ヵ月後は6月か7月。
浪人や留年をしていないとすれば18歳で大学入学。22歳で卒業、就職。翌年異動なので現在23歳か、誕生日を迎えていたら24歳。
逮捕時点で3年間の無免許ということなので本来更新すべき年は20または21歳となるが、自動車免許を取得できるのは満18歳(高3または大学1年)からで、初回更新は取得から3回目の誕生日の1ヵ月後なので21歳の誕生日(大学3年)の1ヵ月後。(誕生日は6~7月)
ただし浪人、留年、もしくは大学院に進学したり、別の仕事に就いていたり、音楽家を目指して活動していた時期があればこれらの年齢にはあまり意味はない。
免許証を更新しなかった理由ははっきりとは分からないが、結婚による姓の変更が関係している可能性を考えた。
結婚で先生が姓を変更していたとして、免許取得が結婚前なら手続きをしなければ旧姓の免許証を持ち続けられる(本来はすみやかに変更しなければならないが)。しかし更新すれば免許証の記載も姓が変わらざるを得ない。そのため違法行為と知りつつも更新を拒み続け、旧姓に拘り続けたのではないだろうか。そう考えて冒頭に戻る。
「美園」は姓とも名とも取れるが、普通に考えると生徒への自己紹介で下の名前だけを言うことはないだろうから姓だろう。その名前が夫の姓だとすれば「のぞみ」の逆であると自ら言うのは、旧姓の喪失が希望の喪失であることを暗に示しているのではなかろうか。
「最初に勤めた中学を一年で辞めて」とあるので、作中の時点では教師二年目。何故か母親はこの先生のことをよく知っているのは、それなりに噂になるような背景があったのだろうと推察する。最後の方で「弟こそ私立の……」とあるので、舞台の学校は公立だろう。とすると教員採用は都道府県単位なので、同じ都道府県内からの異動ということで、問題があって異動となったとすれば噂が耳に入らないでもない距離かもしれない。いや、今のネット社会では距離は関係ないか。
何故先生は前任校を一年で退職したのだろうか。
「ここは……礼儀正しい」「全部の中学生がかりんちゃんみたいだったらいいのに」という発言からは、前任校では生徒が「礼儀正しくはなく」かりんのように純粋無垢ではないということか。それで生徒とのトラブルか学級崩壊のような困難に遭遇したのか、とにかくその学校で教師を続けられない状況になって、自ら一年で異動を希望したのだろう。
先生は自分を指差し「こういう人がポイ捨てするの」と言う。これは一年で辞めた中学校の生徒達を「ポイ捨て」した罪悪感から発せられた言葉だと思うと、胸が痛む。
ましてやかりんに「分かりません」と言われる。純真は時に残酷である。
一方、学生結婚をした相手は海外のオーケストラに入って音楽家として揚々と日々を過ごしているのだろう。夫が大学の同窓生なのか教員なのか、はたまた大学とは関係のない音楽家なのかは分からないが、有名な音大出身者の先生としては夫の活躍を喜ぶ気持ちだけでなく、コンプレックスあるいは嫉妬も感じるかもしれない。
ましてや夫の活躍を側で見られる訳ではなく、誰が望んだことかは分からないが結婚してまだ何年も経っていないのに日本に置いて行かれ、教員としての挫折を味わった時に側にいてもらえないのは、まるで捨てられたかのようだ。
捨てられたオウムのポーチを可哀想に思い使うのは、自分の境遇と重ねているのか。またインコのポーチは捨てられていたとは書かれていないが、オウムもインコもどちらも言葉の意味は知らずにそのまま覚えて繰り返す鳥だ。
校歌は代々同じ歌を口を揃えて歌うもので、前奏で気付かないくらい興味がなくても歌える。意味が分からなくても喋るオウムやインコの言葉と同じだ。
またかりんはかりんの表情をそのまま写し取るめーたんに特に何も思わず、二人のものとして受け入れている。
先生はそんなかりんを見て、「全部の中学生がかりんちゃんみたいだったらいいのに」と言う。
これは管理する立場の言葉だろうか。前任校で言うことを聞かない生徒との関係で挫折した先生の言葉としては理解できるが、姓の変更を拒み続ける自身とは相反する考えで、当事者と管理者としての葛藤が先生を苦しめるのか。などと考えていると、深読みしすぎな気もしてきた。
何にせよ社会の慣習への思慮のない盲従に対する批判精神がこの作品の根幹ではなかろうか。
弟は登場するにもかかわらず存在感がない。母親の駒のように塾に通わされたり私立中学を目指さされたりするが、肯定否定にかかわらずそこに弟の意思は感じられない。
母親は弟を塾に通わせるためにパートを増やして、かりんと過ごす時間を削る。そのためかりんは帰宅しても孤独で、弟と観たら楽しいであろう教育番組も楽しめない。テレビショッピングの出演者はよく眠れる枕で本当に寝てしまうという、これまた文字通りの反応をする。
かりんが番組を楽しめないのは、弟の不在のためであって、番組そのものではなく弟と過ごす時間が重要なのだと示しており、文字通り従うのではなく人との繋がりが大切であること示唆しているのは未来の明るさを予感させる。
そして最後のめーたんのシーンも、理屈では説明できないが何となく明るく感じる。
挫折して孤独で姓というアイデンティティーを失った先生が、おそらくこの後懲戒免職になって、もし実刑判決が下ると教員免許も剥脱されるという暗澹たる人生を送るのだろう。先生の境遇とかりんたちの明るさとの対比が、より悲しみを増す。
それにしてもお母さんが先生の事情に詳しすぎるのは、先生もしくは夫の親戚か何か関係者なのではなかろうかと思えるくらいだが、そこはよく分からなかった。かりんが学校で呼ばれている姓が明かされないのも、勘ぐってしまう材料だった。
何にせよ大人の事情のようなものをペラペラと子供に喋る母親が不気味で、他にも弟のためにかりんとの時間を削るのも合わせてお母さんの陰の部分に見え、陰の先生と陽の子供たちを繋ぐ役割があるのかもしれない。
大学生らしき男性も単なる不貞の相手と見るには軽すぎる気がする。弟かもしれないし大学の後輩かも知れない。
「夫のいぬ間に男性と二人で会う=不倫」と反射的に思う読者の思慮の浅さを、慣習への盲従とともに糾弾する罠なのではなかろうか、などと考えたがそろそろ考え過ぎになってきた。
これ以上考えるとどんどん勝手な空想の世界にはまり込みそうなのでここまで。