ブンゲイファイトクラブ6 1回戦短評
「ジャッジは6枚程度の短評を」というのが運営より指示されたタスクでした。わたしがそれに、「自分の担当作品以外や選考方法について書く余裕もあった方がいいのでは」と提案し、じゃあ7枚でと変更になりました。
なぜかわたしはそれを「担当1作品につき6枚程度」「その他の部分を7枚程度」と思い込んでしまい、泣きそうになりながらギリギリまで書いていてふと気づいたのです。
―― ファイター、こんなに読まれへんよな。
そこで問い合わせたところ、「全体で」という意味だと分かり戦慄しました。「10枚以上の人もいるから大丈夫ですよ」と言ってくれたのですが、(でも6枚×12作品+7枚で79枚はさすがに不公平やしファイター大変よな)と思い、締め切り時間を超過して、窓の外が明るみカラスの寝どころへ行く声を聞きながら、削りに削って提出したという経緯がありました。
担当作品以外もメモを取りながら読んでいたので、簡単な内容になるがわたしなりの短評というか感想のようなものを、順次あげていこうと思う。
中川マルカ『あいはむ』
タイトルは『相食む』か。仮名に開いているのは音韻を味わわせるためもあるだろうし、『愛は無』とか『吾言はむ』とか、他の可能性を残して本文に答えを求めさせようとする策略かもしれない。
冒頭の一文、『さるさま』『みずちさま』で、日本もしくは中国の神話めいた題材の話なのかなと思う。みずちは蛇に似ていて四つ足があり(後の同じような姿のミヒカリが尾をひきずって移動するところからは、足はないかも)、毒を吐く想像上の生物。水神や龍とされることもある。さらにミヒカリとくれば天照大神を連想する。続く「さるさまを取り落とした」は、神様みたいなのさるさまを落とすとはどういうこと? と驚かせて、読者の注意を引きつける。そして読み進めるとそれはお菓子だと分かる。「とんぱら」というオノマトペは聞いたことがなく、しかも機織りの音としてなんとなくしっくりきて印象深い。(『とっぴんぱらりの風太郎』という万城目学さんの作品を連想したが、多分無関係)
このように冒頭で読者の注意を引きつけるのは、さりげなく見えるがかなり高度な筆力が必要だ。
ミヒカリの「わたしたちと同じような御姿」から、ミヒカリとゴマジは上半身が猿、下半身が蛇のような姿となるが、直後に「尾鰭を跳ね」「鱗」とあるのでむしろ人魚に近い姿だろうか。
幻想的な世界をイメージするが、「ありがとうございます無しに」で、急にゴマジは普段は店で猿型のお菓子を売っているのかと、現実的な光景が浮かぶ。ただし売り子とも限らないので、ここは答えのないところか。
ミヒカリの奔放で艶めいたキャラクターが、科白や動作で上手く表現されている。
「七日経っても」の七という数字はどうしても創世記の数字を連想するが、これまでの神道の世界観とは折り合わないので、何とも言えない。
さるさまは菓子として登場するが、みずちさまは登場しない。さるさまと同様の扱いを受けているので、みずちさまも同じく「冷えてしまえばただの菓子」なのだろうが、作品内に現物が登場しないのは何らかの意図だろうか。
一行目とは逆にみずちさまの頭とさるさまの足をくっつけると、当初の結合体とは上半身も下半身もそれぞれ逆になって、互いに補完し合う関係となる。人類はもともと両性具有で、それが分かれたために失われたものを追い求めるという、プラトンの『饗宴』でアリストパネスが語る世界観に通じるものを感じた。
二つに割れたさるさまの中から出る白い紐のようなものは脊髄だろうか。おそらくそこまで細かな設定はなくても、小さな玉と合わせて命の象徴のようなものであろう。ミヒカリの指や口の動きに目を奪われるゴマジは、ミヒカリに特別な感情を抱いていると思われる。そして一つのさるさまの上半身と下半身を分け合って食べ、ミヒカリの言葉通りに口や舌で玉を含み味わう。タイトルにある『相食む』か。直後に続く交配、まぐわいの話、「ミヒカリとのそれ」も合わせて、二人の結合を示唆するものだろうか。
「増やしてどうする」にミヒカリは答えない。沈黙の後にミヒカリは機織りに戻り、ゴマジも家に帰らなければならない。この短い沈黙に、互いの甘い時間が終わりを迎える名残惜しさを感じる。
ゴマジの「(ミヒカリを守る)髪をかきわけてみたい」「隙間という隙間に指を入れてみたい」「腹に、自らを擦り付けてみたい」は肉体的な官能表現だが、その後に「声を聴いていたい」とあり、体も心も満たされたい欲求がありながら手に入らない、ゴマジのもどかしさ、切なさを感じる。その思いはゴマジに『愛は無』の可能性も感じさせ、悶々とした気持ちでいるのだろう。ゴマジが女性かどうかは分からないが、所謂百合小説というものだろうか。
雪と海の対比は、うーん、なんだろう。国産み神話でも創世記でもなさそうだし。
雪は水が結晶となったものであるが、さるさまの中にあった玉は海の結晶で、冷たくしょっぱい。海水がそのまま氷あるいは雪となったものとも言える。結局両者は形を変えた同じものとも言える。生命の誕生は海であるが、雪は何かのメタファーだろうか。
卓越した文章力で読者を引き込み、独特の幻想世界を漂わせる力のある作品だと思う。文章も物語も分かるが意味するところが分からない、という不確実さが、知的な理解を拒み感性に訴えかけるという意味で成功している。
検索して分かったのだが、中国の創世神話では伏羲(ふし/ふくぎ)と女媧(じょか)という、半人半蛇の神が人類の創世神とされており、それがモデルだろうか。伏羲は男神、女媧が女神とされている。ミヒカリが「彼女」と性別を示されているのに、ゴマジは性別が明らかでない。ただイメージとしては女性と感じたので、丸々神話に当てはめるのは無理があるか。『日本書紀』では、天照大神自身が機織りをしている描写が見られるそうで、「ミヒカリ=天照大神」説は信憑性がある。となるとゴマジは月の神である月読かもしれない。月読も男神とされることが多いが古典に性別は記載されていないので、こちらの方があてはまりそうだが、名前からは関連はなさそうなので、深読みしすぎだろうか。
作品世界に意識を引き込まれ、そこから弾かれるような部分がなく没入感があった。一方文章は難解ではないが、前提とする知識が必要そう。とはいえ、意味を考えなくても作品そのものを感じとり表面だけでも楽しめるし、上述のようにあれこれ考えたり調べたりしたくもなるという年輪あるいは地層のような奥行きが感じられる。
深澤うろこ『あそこで鳩が燃えています』
本文全体を( )で括っているのは誰もが気になるところだろう。わたしは小学校で「 」は声に出した言葉、( )は声に出さず心で思った言葉と習った覚えがあるので、率直にそのようにとらえた。つまりこの作品は声にならない声を表したものだと。
作品の構造として、話者の外界と内界を行ったり来たりするものとなっている。蕎麦屋に入ってすぐに視覚、聴覚で三人組の話や振動音といった外界を感じたかと思えば、音楽が竹内まりやだと「気づく」という内的体験に一瞬移り、直後に外部の「声が聞こえ」てくる。ここで竹内まりやである理由分からなかった。そしてまた鳩が燃えているという会話を聞き、いきなり英訳を「考える」という内界に移る。こんな具合に外と内を行き来するうちに、内に変化が生じる。考えたり気づいたりという認知的営みから、「残酷な映像が挟み込まれる」という侵入的すなわち意図せぬイメージにである。この内外の往来には、内的体験だけでは読者の感覚から外れてしまうリスクがあるが、外的なものの間に挟むことでサブリミナル効果のように、それとは意識させずに読者の感覚を操作する効果があるのだろうか。
話者は二人の後頭部が邪魔をして、実際には燃えている鳩を見てはいない。しかし鳩が燃えていることに疑問を挟まないのは、ネットに溢れかえっている口コミや噂でしか知らない情報を事実だと信じている人のようだ。
鳩と言えば平和の象徴だが、わざわざ英訳をしているのでpigeonの別の意味をかけているのかと思い調べると、『乙女』『騙されやすい人』という意味もあった。あえて深読みすると、ネットの情報に『騙され』鵜呑みにして、炎上に加担する人という見方もありだろうか。しかしそれはやはり考えすぎのような気がするので、前者の平和の象徴と見て、その鳩が燃えているのはそのまま平和が脅かされているという解釈でよいのだろう。とすると「残酷な映像」の「穴の開いた石壁」も踏まえて、どうしても現在わが国(蕎麦屋なので日本だろう)で報道されているウクライナやパレスチナの状況を連想する。燃える鳩を見ている人の「ウケるんだけど」という言葉は、虐殺、侵略が現在進行形で起こっているのを知りながらも、どこまでも部外者で居続ける人々を表している。
「美味しいと感じると罰が当たる気がする」「まだ刑罰のない悪事」にはドキッとした。部外者であることや恵まれてあることを、蕎麦の美味さに例えて、罰が当たるとはなかなか思いつかない表現だ。
文章は平易で読みやすくメッセージが込められており、個人的には好きな作品だが、文芸としての完成度という視点ではやや弱く感じ、もっと深掘りしようとまでは思えなかった。
両目洞窟人間『YEAHHHHH!!!!!』
読みやすく軟らかな文章で、最後まで楽しく一気に読める作品だ。作品中に登場するバンドや曲名、ボーカリストが若くして亡くなったエピソードは実話のようで、そのバンドを知っている人と知らない人とでは、作品から受ける印象は大きく異なるだろう。柴田さんが急死したのは、ボーカルが若くして亡くなったことと絡めているのだろうか。
猫を主人公に持って来ているが、その効果がいまいち分からなかった。これが人間の少年少女でも老人でも、印象は異なるが物語は成立する。猫が人語を喋り二足歩行し、老婆たちがウクレレで激しいロックを演奏し、シューゲイザーを詩吟で吟じ、小学生達がリコーダーでハードコアテクノを演奏するというのは、意外性で目を引こうという意図に見えて、かえって安直に感じてしまった。
一行目の「二本足で立ち、喋ることができる」という説明部分はない方が良かったのではないだろうか。説明が悪いと言うわけではないが、後で二本足で歩いて喋っている描写をすれば伝わることだし、ここで説明をすることで作者から読者への語りかけになってしまって、読者は一時作品から離れてしまう。何の説明もなく猫が歩いて喋っていれば、読者は自らああそういう話なんだと歩み寄ってくれるように思う。
「(75歳・人間)」も必要だったのか。他に同等の表現がないので、ここだけ浮いてしまった感がある。
真ん中の席に座って「しまいました」は、そこに座ったことが不本意であったり悪い結果をもたらしたりということなら分かるが、その後そのような話もない。
柴田さんの大切な思い出もバンドのもう一つの曲で、その曲を知っている人はまた違う印象を持つんだろうなと思ったが、私にはよく分からなかった。
以下は誤字?
3枚目:「訪ね」→「尋ね」
5枚目:「ソ連国歌を演奏」→「ソ連国歌の演奏」