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肺に被さる夜

台風が来る。ふとその気配を嗅ぎ取った。
長く喘息と付き合っていると、低気圧や台風が近づくのが分かる時がある。胸が痛んだり、寝付けなかったり、初めは仰向けで寝ていたはずなのに、起きたら横を向いて体を丸めていたり、些細なサインに私の肉体は敏感だ。

今に関して言えば、寝苦しく目が覚めた。少し頭も痛い。暗い中iPhoneを手探って掴む。パッと照る画面が眩しくて、眉を顰める。示す時間は3:26。天気アプリの青のグラデーションに触れる。予報を見ると、今日明日は保ちそうだが、明後日から大雨。今日は洗濯をすると緩やかに予定を立て、対症療法的に体を温めるようと紅茶を淹れるのを決意し、布団から這い出す。

そういえば一昨日、ティーポットをシンクの中で割ってしまって、紅茶を飲むには1杯ごとにマグカップで淹れなければならず、ポットを割って以来、温かい飲み物を飲んでいなかったかもしれない。身体も冷えていたのだろう。もう11月末、年も暮れる。

ティーポットで紅茶を淹れるより、1つのティーバックを1つのマグカップに充てがって紅茶を淹れる方が、実は余程贅沢だ。たった200mlのお湯に、ティーポットで淹れれば3杯飲める茶葉を浸し、抽出に1分もかけず生ごみにしてしまう行為は、植物の上澄みだけを掬って飲んでいるような気がして、貧乏性の私には荷が重かった。


私が後藤という男に近付いたのは、彼に染みついた煙草の匂いがとても好ましく、ただそれに興味を持ったからだった。私は長患いの喘息ゆえ、望んだとて喫煙することは出来ず、手軽な言葉にすると憧れなのだ。

灼け付く暑さの7月、近所のコンビニの前でぼんやり煙草を吸う後藤を始めて見た時、いや、最初に飛び込んできたのはやはり、煙に対する己の体の軋みだった。だけど今まで嗅いできた、苦くざらざらするばかりの煙草の匂いとは趣が違う気がして、そちらを見たのだ。カーキのTシャツを着た猫背の男が、くたびれた証明写真機の傍に立っていた。
「何を吸ってるんですか」
今思うと、好奇心に従いすぎた気がしてる。多分、後藤の背負う空気から、話しかけられたら冗談か本気か分からないくらいの適当を返してくれそうな、ちょっとした人の良さを感じたのだと思う。 後藤は、初めて話す人間相手とは思えないほど気楽に、私に向けてコンビニの袋から1ダースの煙草を出してみせた。もしかすると、見知らぬ人に話掛けられるのに慣れているのかもしれない。私はというと、まず煙草のダース買いを見たのが初めてだったので、そちらに驚いた。
「そんなに吸うんですか」
「うーん」
この時初めて後藤の声を聞いた。明るいが低かった。
「この辺でこの煙草売ってるコンビニ、ここしかないからさ」
ゆったり喋る。生クリームみたいだと思った。
「とりあえずまとめて買っちゃうんだよね」


私が例のコンビニで買うものと言えば、決まってハーゲンダッツのバニラとブラックニッカだった。ハーゲンのバニラを、綺麗に洗って水気を拭った冷たい銀のスプーンで、まだ少し硬いアイスをみりみり掬い、小さめのマグカップに重ねて入れ、ぬるいニッカブラックをとくとくかけて食べるのが、私にとって最たる贅沢なのだ。

後藤が私のアパートに来た最初の夜をよく覚えている。コンビニの前で話し込むには滲む暑さの8月のこと、話すのは2度目だった。私はいつも通りアイスクリーム3つとブラックニッカを手提げ、浮つく気持ちでコンビニを出て帰路に着こうとした時、背中から聴いたことのある声がした。
「あら、どうも」
自分に話しかけられたのか少し疑いながら振り向くと、人懐こい顔の後藤が居て、ああ、私で合ってたかと、まず安堵した。この時の我々はまだ名乗っていなかったので、名前を呼ぶことも出来ず、ぼんやりとした挨拶でしか声を掛けられなかったのだ。近所付き合いではしばしばあることだろうが、不便に思った。
「そういえば」
私は、後藤の目を見ながら話を切り出した。
「はい」
「名前を聞いて良いですか」
「ああ」
「私は岩瀬、と言います」
「おれは後藤、です」
「後藤さん」
「はい、どうも」
改めて名乗る行為はなんだか、気恥ずかしい。
「後藤さんの吸ってる煙草」
「うん、これね」
「匂いがとても、好きなんです」
後藤は、コンビニの袋をがさがさして1ダースの箱を引きずり出し、ちらとこちらを見て、言った。
「1箱あげようか?」
「えっ」
甘やかな誘惑だった。嬉しい。いや、駄目だ。
「ごめんなさい。私、喘息持ちで、煙草を吸えないんです」
私は俯いてそう言った。
「それは残念だ、申し訳ない」
「あの、代わりに」
「はい」
「煙草の匂いだけくれませんか」
「え?」
「私の部屋を、煙草の匂いで、満たして欲しいんです」
口を衝いて出た言葉に、自分で驚いて、ばっと顔を上げた。まずい。これは多分、猫が死んでしまうような好奇心だ。
「えーっと……」
後藤はとても狼狽している。そりゃあそうだ。
「ここで話していると」
私は意を決して、後藤が煙草を見せるのを真似て、コンビニの袋からバニラアイスをひょいと取り出した。
「ハーゲンダッツが、溶けてしまうので……」
紙製のカップも私も、汗ばんでいる。
「それは……よくない」
私に遠慮してか、ハーゲンダッツに遠慮してか、後藤は観念した。


「おじゃましまーーす……」
「どうぞ……」
後藤も流石に抵抗を感じているらしい。着いてきておいて今更、とも思うが、当の私も混乱しているのだから無理もなかった。来客用のスリッパを一応出す。私はスリッパを普段履かないので、本当に形式的に。さっきからずっと慣れないことばかりしている。後藤はぽつり、誰に言うでもなく、どうも、と言ってスリッパを履き、部屋をきょろきょろした。それは、物の位置や部屋の間取り、清掃状況を確認する視線というよりかは、彼がこの部屋で過ごす時、どこに居座れば落ち着けるかを探しているようだった。

私は台所に向かい、ハーゲンダッツを冷凍庫にしまいながら製氷皿を出して、次に冷蔵庫を開け、水出しの紅茶を取り、大きめのグラス2つに氷を4つずつ入れ、紅茶を250mlほど注いだ。からん、と夏の音がする。氷と水出し紅茶の在庫を一気に消費したので、補充しようか悩んだが、今は滅多にない来客を優先することにした。誰かと同じ空間に存在するには、酷く沢山のものーー例えば、時間や空気や金銭、その日の気分や気候や、相手の趣向に合わせた飲食物、適した話題ーーを消費する行為なんだと、生ぬるい実感を得て不思議な気持ちになった。

私がお茶を持って居室に行くと、後藤はパソコンデスクの、背もたれ付きのグレーの椅子に浅く腰掛けていた。床に置かれたクッションでもなく、ベッドの端でもなく、デスクチェアを選び取るところに、この人の妙な生真面目さを感じた。


それから、後藤は何度か私のアパートを訪れた。後藤は煙草を吸う場所には大してこだわりが無かったし、私は私で、後藤が部屋に居るのに安心感を覚えた。例のコンビニで出会すこともあれば、唐突にやってくる時もあった。素性を良く知らない男が、自分の部屋に居て安心している心理状況が、我ながら理解できなかった。くだらないことばかり話し込んでいるうちに、後藤と私はそれなりに仲良くなった、と思う。実際には、私の大学や後藤の職場での愚痴や、ハーゲンダッツはバニラに限る、とか、いや、クッキーアンドクリームの方が美味しいとか、そんな表面的な話ばかりをしていたような気もするので、仲が良いと言って良いかは、よく分からない。

ただ、彼はどこで会ったとしても私が喘息である事を気遣った。長年の持病を伝えた2度目の会話以降の後藤は、喫煙所なり道端なり私の部屋のベランダなり、二時間置きに場所を変えて煙とニコチンを摂取しては、まめに私の元に戻ってきて、こちらの要望通りに香りばかりを提供した。後藤はとても大きい砂時計よろしく、何があっても二時間きっかりで私の前から去り、煙草を吸った。最初は少し離れてデスクチェアに座っていた後藤も、床のクッションに座る私の隣で喋るようになった。

私が知る限り後藤は理性的で、例えば、同じ部屋に気を許した女が居座っても、取って食うようなことはしなかったし、威圧的なこともなく、いつでも生クリームのようにまったり喋った。しかし、ニコチンに対してだけはどうにも理性が働かない。それが私には、とてもいじらしく見えた。


後藤が私の部屋に最後に来たのは、10月の終わりだった。丁度今日の、1ヶ月前の日付だった。だけどもう、随分前のことに感じる。結局、私が悪かったんだと思う。
「後藤さん」
「はい」
「その煙草の匂いは、何の匂いなんですか?」
「チョコレートと、バニラ」
「煙草って、そんな可愛い味、あるんですか」
「ちゃんとバニラビーンズも入ってる」
「へえ」
「らしい」
「甘いんですか」
「匂いだけじゃなくて、ちゃんと味も甘いよ」
「へえ、食べたいです」
「そうかい」
あ、やってしまった気がする、と思った時には遅くて、憧れた香りが、柔らかさと甘味と共に、今までで1番近くにやってきた。嫌だなと思った。後藤がじゃない。どんなに理性的な人間でも、状況が整ったら肉体を伴わずにいられないことが、だ。状況を整えた自分も嫌だった。

柔らかさが離れた一瞬、何かの光が後藤の瞳に入って、虹彩の色がよく見えた。少し緑がかった、明るい茶色だった。素直にきれいだと思った。だけど、私の口は随分重くなってしまって、その気持ちが声になることは無かった。申し訳ないと言うように、すぐに瞳が睫毛に隠され、陰に飲まれた。あとは何もされなかった。それはそれで苛立ちを覚えた。私も後藤も、みみっちい。

どうしようもなく鈍い時間がしばらく流れた。少ししてゆらりと後藤は立ち上がり、私の部屋を静かに出て行こうとした。私は時計をちらと見ると、前に後藤が煙草を吸って戻ってから、きっかり2時間経過していた。後藤はこんな時でも後藤であること、あるいは、あろうとしていることに、何だか安心した。スリッパを履いて玄関に向かう後藤に、話しかけた。
「後藤さん」
「はい」
「おやすみなさい」
「どうぞ、おやすみなさい」
後藤ももう、大して気まずそうでは無かった。だけど、二度とここには来ない気がした。アパートの玄関を丁寧に閉めていった。


私が想像したように、後藤はそれ以来、私の部屋を訪れなかった。例のコンビニで見かけることも無かった。正直、手を出されたことは随分どうでも良かった。そんなことより、後藤があの煙草を買いに行く為だけに、遠くの店まで出向く必要が生まれてしまったことの方が、余程忍びなかった。後藤が移動を面倒くさがって、別の匂いの煙草を吸うのが想像できてしまうことの方が、余程不快だった。

昨日のことだ。夕方に大学から帰ってきて自室に入ってしばらく、くしゃみが止まらなくなってしまったので、ちょっとばかり掃除をしてやろうと、ベッドの下を覗くと、煙草が1箱出てきた。濃い茶色には見覚えがある。後藤が吸っていたものだ。封は空いていて、既に何本か吸われた形跡がある。残りは5本。箱を開けただけだが、チョコレートの香りが強くした。最後の日、後藤が動揺して忘れていったのかもしれない。だけど、置き土産にも思えた。私には余りにも、魅力的すぎる。

気付いたら、この煙草を吸う為の準備を始めていた。少し秘密の儀式の準備めいてもいた。ネットで吸い方や着火の仕方、何が必要か、終わった後の換気について、思いつく限り調べた。折角なら綺麗な灰皿やライターを買おうか考えたが、私の部屋には無用の長物だったので、携帯灰皿と透明の青のライターを例のコンビニで買った。このコンビニでバニラアイスとウイスキー以外を買うのは初めてだった。


部屋の電気をナツメ球だけにして、私は灰色のデスクチェアに座った。 少ない肺活量の息を自分なりに大きく吐いた。息を吸うためにはまず、きちんと息を吐ききらねばならないのを、経験上良く知っている。煙草を1本咥える。ライターを付ける。吸い方が正しいかは正直、怪しい。考えてみれば、後藤はいつもわたしのいない場所で喫煙していたから、見よう見まねにすらならない。肺にバニラとチョコレートが潜り込む。美味しい。先端の光がきれい。煙がくねくね踊っている。BGMはジャズかな。煙草のバニラってこういう味なのか。アイスのバニラビーンズとは少し違うんだな。甘やかで、どこか尖っていて、だけど自然だ。後藤と同じ味を吸って、似たように美味しいと感じるのは近い味覚を持っているのだと嬉しくなる。こんなのはとてもみっともなくて、恥ずかしい。品性が無い。だけど、自分がこんなに品性のない人間だと知れて、面白かった。

しばらく煙ってるうち、それは突如やってきた。

身体への大きな衝撃だった。肺の中からすべての空気を追い出すかのような、ビニール袋を裏返しにして中身をまるごと出すかのような、大きな咳が突如やってきたのだ。身体中が軋む。大きな咳には慣れているが、それでも苦しいものは苦しい。痰を絞り出す為に喉と肺が乾き、顔からは涙や鼻水などあらゆる液体が溢れ、肺から上の器官がしっちゃかめっちゃかになる。干からびた頭痛。喘鳴。発作の証のひゅうひゅうという喘鳴。この音を聴くと思い出すのはいつも、強い木枯しの音だ。甲高い、亡霊が暴れ回る夜の音。肺に夜が被さる。喘鳴がやってくるのは大抵夜で、この音を聞きながら過ごす夜が怖かった。だけど安心もした。ここには、私と胸の嵐しか無い。閉じられた暗闇に丸まって、誰にも見つからないような、かくれんぼで、鬼に見つからないまま日が暮れて、他の子供たちはみんな帰って、警察騒ぎになってしまうような、淋しさと優越感があった。こんなに汚い姿は誰にも見せるべきではない。夜のうちに密やかに行い、そして閉じなければならないのだ。

少し咳が落ち着いて、薄暗闇の中、吸入器を探す。いつも持ち歩いてる薬ポーチの中、無い。パソコンデスクの上、無い。洗面台、無い。枕元、無い。どうしようも無いので、未開封の吸入器が薬の在庫入れにあったはずだと、透明なプラスチックの引き出しを漁る。あった。今度は薬の煙を、大きく吸い込もうとする。開封したばかりの吸入器を、2回空撃ちする。これを大きく吸い込むためには、息を吐き切らないといけない。さっき吸い込んだばかりの美味しいチョコレートとバニラを、全部吐き切らないといけない。

胸が痛い。

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ひらぐり・ひらり
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