vistaという「宗教」?
ある日,僕の友人が「教義をつくりますよ」とLINEしてきたことから始まったvista(事実は小説より奇なり).その日から,我々はひとまず以下の内容を自分たちの教義として掲げることにした.
教義と聞いて,まず真っ先に思い浮かぶのは宗教である.では,教義を掲げているvistaは宗教なのだろうか?宗教の定義を調べると,以下のような記述がみられる.
他にも宗教の定義にはいろいろな議論が渦巻いているようだが,どうやら宗教を構成するものにはおおむね「宗教思想(=教義)」,「宗教体験(=儀礼)」,「宗教集団(=共同体)」の三要素があることは間違いないらしい.これに従えば,vistaは既に教義という要素を備えていることになる.
それでは,やはりvistaは宗教なのだろうか.この記事では,vistaのシステムを紹介しながらvistaの宗教としての側面について考えてみる.
vistaにおける「教義」
vistaでは,教義として上述したようなdoctrineを掲げている.vista全体で何かを決めるときには,いつもこのdoctrineを参照する.
しかし,doctrineでは「遠望した目標」が具体的に何であるのかについては言及しない.あくまで何を遠望とするかは各自で設定するもので,vistaは個々人の目標達成のための互恵的な関係を提供する場に過ぎないのだ.
そのため,vistaでは各自でミッション・ステートメント(自分の人生における価値基準や行動方針を言語化したもの)を設定し,それに基づいて目標設定を行っている.メンバーたちは,日々の一挙手一投足を遠望を分割していった極限とするためにdoctrineと自らのミッション・ステートメントを念頭に置いて行動する.
vistaを宗教であるとすれば,その「教義」は統一されておらず,遠望としてメンバーそれぞれが掲げるものである.
vistaにおける「儀礼」
vistaでは,活動に際して特に絶対的なルールを設けていない.doctrineが全活動に通底する変わらない思想として貫かれている一方で,その思想の体現の仕方は時間やメンバーの成長とともに変わり続けてきた.doctrineに「最良のシステムは意思の力を必要としない」とあるように,意志の力に頼らず自然に目標達成ができるシステムを目指して日々試行錯誤を繰り返しているのだ.
vistaを宗教であるとすれば,その規律や戒律は固定されていない.最良のシステムを目指して,ルールは変わり続ける.
チャンネル
具体例を示してみよう.現在vistaは主にdiscord上のサーバ(当初はSlackのワークスペースだった)として展開されており,そこには様々な「チャンネル」が存在する.
同じ時期に同じ目標を持った人がいたとき,その者たちの間でルールを定め,相互に実行・報告・評価しあうためのチャンネルを作る.チャンネルにはテーマが設定されており,メンバーたちはそのチャンネルのルールを自分たちで設定してそれをこなす.
例えば,noteチャンネルにはvistaの活動をnoteの記事として書きたい有志が集まり,note投稿に関するノルマを設けてそれを消化していく.greatmorningチャンネルでは毎日起床報告をする.exerciseチャンネルには運動をしたことの報告や運動に関するTipsが集まる.
vistaではこのようなチャンネルを誰でも作ることができ,他のメンバーを巻き込んでチャンネルを盛り上げるために各々で企画設定やルールづくりをする.メンバーはルールを守るよう尽力しながらも,ルールの改善点があれば最良のシステムを目指して積極的に改変する.役目を終えたと判断されれば,チャンネルが閉じられることもある.vistaでは,このようにして様々なチャンネルが生まれては消えてを繰り返している.
vistaにおける「儀礼」は個々人の発案で生まれては消え,目標達成のための最良のシステムを目指して変わり続けている.
vistaという「共同体」
最後に,共同体について考えてみよう.vistaはまぎれもなく集団で活動しており,個々人の目標達成のための互恵的な関係を築くという活動目的を持っている.しかし,vistaには「活動に際してリーダーの座を設けない」という決定的な特徴がある.vistaを宗教であるとすれば,そこに絶対的な神や教祖はいないのだ.奉仕する側,される側といったメンバー間の立場の優劣を設けず,あくまで互恵的な関係の構築を目指している.おそらく,今後も特定の個人がvistaのリーダーになることはないだろう.
これも,vistaの「教義は各々が設定する」,「絶対的な規律や戒律を持たない」という特徴に根ざしたものだ.メンバーの誰も,他の誰かの目標を指定したり強制的な規律を設定したりする権限は持たない.
vistaというサード・プレイス
筆者が共同体としてのvistaのあり方としてしっくり来ているのは,「家庭でも職場でもないサード・プレイス」というものである.
vistaは,ここに挙げられているサード・プレイスの特徴の多くを備えている.メンバーたちの関係は平等で,来る者を拒まず去る者は追わない.互いに応援しあい,気づいたところがあれば指摘し,最良のシステムの構築のために是々非々で意見を取り入れる.
vistaという「共同体」は,このようなオープンな組織づくりによって互恵的な関係を築いている.
vistaという「宗教」?
このようにして見ると,vistaは一般的な宗教の利点を生かしつつ,それでも宗教と分類するには異質な特徴を備えていることが分かる.
vistaでは,
doctrineという「教義」によって組織としてのつながりを強めつつ,遠望の具体的な内容は個々人が価値観に合わせて自由に設定できる.
チャンネル内で行う「儀礼」によって目標達成に向けた行動のコミットメントを強めつつ,最良のシステムを目指してそのルールを改良し続ける.
discord上で「共同体」を形成して活動をスケールさせつつ,サード・プレイスとしての特徴を持たせることで互恵的な関係を築いている.
vistaを宗教であるとすれば,それはこれまでにない新しい宗教だ.
自分と仲間の,自分と仲間による,自分と仲間のための新しい宗教だ.
vistaはこれからも新たな遠望に飛び込み,新たなルールを取り込み,新たな仲間を巻き込み続ける.
いつかあなたもvistaを変え,vistaによって変わるかもしれない.
それでは,また次回.
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