プラスでもマイナスでもなく、 生てもなく死でもなく 両方を見渡せる意識場。 肉体的に、今は生の場所にいる。 今は生にいるだけ。 肉体がなくなれば、死の場所に行くだけ。 私は何も変わらない。 ずっとここにいる。 生まれる前も、生まれたときも、 生まれてから随分たった今も、 きっとこれからも。 肉体と環境が変化しているように見えるだけで、意識はずっとここにいる。 安心できる場所。 私の場所。
伝わったのだろうか? 全力ではある、でも受け手の問題。 どうなのだろえか? 図ることも出来ず、️⭕️と❌だけで何か決められなくて、そこには人がいて、人生があって。 勘違いして欲しくなくて、わかって欲しいのか? わかってあげたい。わかってあげたい。 わかってあげたいは、 付いてるよ、安心してね、大丈夫だよ、 頑張ろう、少しずつ歩んでいこう、 諦めないで、拗ねないで、行こう、 好きなように走っていい、 責めないでほしい、出来ない自分を責めないでほしい。大丈夫だから、頑張るって言わ
すごく引っかかっていることがある。 先日、洗濯機を買ってもらった。 届いて、設置してもらったら、ホースが引っかかるから、かさ上げ台が必要と言われた。 3000円だった。 リサイクル料金も設置費用も、私が払う訳では無かったので、まぁいいかと買った。 後で、高かったなと後悔をした。 かさ上げ台から、代わりのものが家にあった。ふと業者の人とやり取りする時も浮かんだが、まぁいいかで、済ませてしまった。 なんであの時、これありますって言わなかったんだろう。 なんであの時、後で買いますっ
朝、午前中、自分の時間になった。 勉強してもいい、寝ててもいい、 料理してもいい、何してもいい。 経済的に見れば、全くもって豊かでは無い。 毎月、やり切れるか心配が尽きないが、 それでも、朝、窓の外を見て、空が青いなと感じたり、季節が変わったこと、鳥の鳴き声を聞いたりできている。 この瞬間の幸せを感じられている。 感じられる自分がいることも、10年前と大きく変わったと思うところである。
すぐさま逃げたくなる。 その手から、遠くへ行きたくなる。 芯から自由を愛しているのかもしれない。 昨日、自由という言葉の語源と、西洋の自由との違いについて知った。 西洋の自由は、縛るものからの解放。 東洋の自由は、自らに由る。 西洋は発信元が、ネガティブに感じる。 対して、東洋は、あるがままであること。 私は、まだ、ネガティブからの脱却に過ぎない。あるがままである境地に行った時、私はどう感じるんだろう。 そこに行くには? そもそもその境地は、行くものなのか? また、自由の定義
自分は、自分でしかなくて、今の感情も感覚も、今この身体の、この体でしか感じられない感情なんだな。 しんどい気持ちも、 迷走してモヤモヤする気持ちも、 なんだかなぁっていう気持ちも、 やらなきゃーって気持ちも、 私はこのままでいたいのかなって、今の現状に疑問を投げかけて不安を感じて、でもすぐ打ち消して、歯を食いしばることも、 なんか否定する気持ちも、 隠したい気持ちも、 見ないことにしておきたい気持ちも、 不安も、パッとしない気持ちも、 今、、今今、今この瞬間、 次のページが
なんだろう、ザワついてる。 あっちもこっちも、どっちもそっちも。 社会保険、雇用契約、業務委託、仕事色々でどこも人手不足で、いい子ちゃんの私は、つい、私に出来るならって手を出してしまいがち。 私は、静かに、2週間ほどの長期休みに旅に出たいだけ。 保証が欲しいわけでも、人の役に立ちたい訳でもなく、休みの時に静かに、誰にも邪魔されず休みたいだけ。 いや、もっと望んでみよう。 長期休みで旅に出て、静かに時間を過ごしたい。 マイペースに仕事したい、 追い立てられたり、焦りながらではな
モヤっとする。なんだろう。 目の前で、不正の証拠となる大事な書類をシュレッダーに、かけてしまい大騒ぎしている人がいる。 眺めている私。 私からすると、一大事のように思うけれど、周りはそうでも無い。 やってる本人は、大慌のように見える。 私はその場離れても、責めていた。 シュレッダーをしてしまったこと。 不正を働いた人、 それを見過ごした監督不行届き人。 でも、周りはどちらかと言うと、フォローモード。 私の中で、有り得ない!と思った。 会社ならとことん叱られてるし、しばらく無視
自分が悪かったと言って、 自分の行いを後悔して、 自分のやったことを間違いだったと認定して、 自分の非を謝り倒して(相手から謝ってと言われてないのに) 自分のたった一つのミスを嘆いて、 過ぎたことを何度も思い出して、 何度も頭の中に対象者に謝って、 自分のせいで、上手くいかなかったんじゃないかと考えて、 自分のせいで、自分のせいで、 自分のせいで、自分のせいで、 自分のせいにして、何がしたいんだろう。 自分のせいにして、何がしたいんだろう。 自分で背負って、何がしたいんだろう
割と幸せ感じてる。 やりたくてやってるから。 目の前の人に、いつも元気もらう。 関係ができていることが嬉しい。 少しずつ関われていることが嬉しい。 忙しさに忙殺されているけど、何かしらの「生きている」を感じられている。 もう一つの方の仕事も面白い。 何を求めていて、それに応えていて、反応があって、継続があって、生かされていて、何かをしている自分がいる。 その実感を感じられていることが幸せ。 必要とされていることが嬉しい。 私にもこんな力があったんだという事を感じる。 私にも
見えない。何がしたいのか。 軽く燃え尽きているのか、淡々と進める目の前のことに、もっと楽しく、もっと刺激を、もっと面白みをと求めているエゴの声。静かで穏やかな中にいればいいものを、こんなはずじゃないとずっと前から私に訴えてくる。 こんなはず?どんなはず? どんなはずが、私の人生だったのだろう?もっと社交的で、もっと器用に進められて、どんどんやりこなしていて、たくさんの喝采を浴び、輝いている。そんなのが私の人生だったのだろうか? 輝いている人を見た時に、羨ましいと思った。輝いて
空っぽ、ずっと前から気がついていた。 何も無いことを、人と比べて、誇れるものは何も無く、何かに秀でものもなく、頑張ったって自分何もなし得ないし、そもそも頑張る力すらない。少し頑張ってみたけど、上手くいかなくて、どうしていいか分からなくて。 先生もに聞いても、解決策が見つからず、もう頑張ることを辞めた。 出来ないなら、何もしなくても同じだし、やって出来ないことなら、わざわざやる必要は無いしって思って、やらなかった。 進学しなくちゃと思っていた。やりたいこともなかった。強いて言え
今の置かれているあしもとをみているから、悲しいし、苦しいのだ。 いい時は、足元なんて見ない。 上ばっか、前ばっか見て、置かれている場所なんて、見向きもしない。 けれど、暗くて、先が見えなくて、不安で、落ち込んだ時にやっと、今の自分は、本当は何を思っているのか、何を感じているのかをようやく見る気がする。 不安を感じることも、苦しみを感じることも、迷いを感じることも、今の場所を再確認するためのことであって、悪いことじゃない、ダメなことじゃない。 きっと、起こるべくして起こってて、
期待をすると、そうならないことに怒りが湧く。 期待をしないと、どうなろうと、ただ呆然と眺めていられる。 とても楽。 今まで、ジェットコースターを味わうべく、期待をし、一喜一憂し、疲れ果て、感情を凪に持って行ってみたけど、なんとも窮屈だった。 凪でなくても、流れるままに、していればいい。 ただ、期待は不要で、〜だから感謝するも不要だ。 期待なく、ただ淡々と、ただそれがあるだけ。 そうなのだ。 苦しいのは、期待する先が間違っている。 止めればいい。いや、止めなければ、もういい加減
自分を見つめる講座のみ申し込みが怖い。 明日が怖い。 授業準備に時間がかかると思うことが怖い。 自分と向き合って、色んな感情が出てくることが怖い。 仕事に追われることが怖い。 また、授業聞いてくれない人を見てしまったら、怖い。 わからんことをわからんと言われないことが怖い。 でも、これに感じては、今まで言語化せずに、わからんわって思ってそのままにした自分がいるのも事実。 他人は悪くないよな。 過去の自分を見て、それをされたがわになって、どうしようと思う自分がいて、どちらに立
後に先にも、私は、私でしかなく、 これまでも、私が私であったように、 これからも、私は私でしかない。 なんの変哲もない、なんの取り柄もない、 なんと言う特徴もなく、もぎたてほやほや、何ら変わり映えもせず、なんてない。 ただのわたし。 地に落ちることも、天に昇ることも無く、 ここにいる。 何をしても、何をしなかったとしても、 私はここで何も変わらず。 何を得ても、何を得なくても、結局は、 何も持っていなくて、それでいて、 有り余るほどに全てを手にしていて、 抱えきれず、その持