頭の中で踊る男
駅の掲示板に、ジャズダンス教室のチラシが貼られていた。
俺はジャズダンスというものを言葉としてしか知らない。
何年か前に、友達が連れてきた女が「私、ジャズダンスやってるんだ」と言っていたのを聞いた。あれも確か夏の日の夜だった。
その女の話を聞いて、そのときの俺の頭の中にはこんなイメージが浮かんでいた。
───森田童子の「ぼくたちの失敗」に出てくるようなアンニュイな大学生の男女が、地下のジャズ喫茶のステージの上で、チャーリー・パーカーのトランペットの音色に合わせて踊っている。
分厚い眼鏡をかけた文学部の男はジャズステップを踏みながら、サルトルを引用して髪の短い女に唯物論の限界を説く。
「つまり僕らの時代精神は階級意識なんかではなく人間愛なんだよ」と男は言い、女の頬にジャズキッスをする。
女は踊りながら終始何も言わずに男の目を見つめている。しかし彼女の視線はそのもっと遠くの何処かへ向けられているように思えた───
こんなことを考えていたら、一人で面白くなってしまって、女の話はどうでも良くなっていた。
俺の頭の中で踊っているこの間抜けなカップルのステップを止めてしまうのも無粋な気がしたので、ジャズダンスが一体どんな物なのかは終ぞ尋ねなかった。
地下鉄のホームに降り、いつもの癖でスマートフォンを開いたが、調べるのはやめておいた。
おそらく真実が面白味のないものであろうことは判っている。行ったことがないので知らないが、多分ジャズ喫茶にダンスステージは無い。しかし、チャチな真実よりも大きな妄想に価値がある筈だ。
何かを知ってしまうということは体にタトゥーを刻むようなものかもしれない。どちらもレーザーで焼いてしまったりしない限りは基本的には不可逆だ。多くのことを簡単に知れるということは、それだけ多くの想像力が奪われているということでもある。
スマートフォンを閉じて妄想の風呂敷を広げると、今度はチェット・ベイカーに合わせてステップを踏む間抜けな男女の足音が遠くから聞こえてきた。