落馬

くすんだ緑色のインクで刷られた5000円札をポケットの底から見つけた。広げてみると、ニーチェの横顔が肖像画になっている。いつの間にポケットに紛れ込んでいたのだろうか。

皺を伸ばしながら紙面を観察していると、左下に小さく刷られた発行日が自分の生まれた日と全く同じであることに気付く。

目が覚めた。


会社へ向かう電車でサラリーマンは皆、口裏を合わせたようにカバンを抱きかかえている。

些細なこだわりが少しずつ淘汰されてゆく時間の流れの中で、人の姿は段々と収斂されていくように思う。

リュックサックを抱きながら扉の脇を陣取る男のシルエットは流線型によく似ている。

スマートフォンを見つめるその男の口元が溶け出して見える。眩暈。スーツ姿に似合わない結んだ長髪を撫でて吐気の波を乗り過ごした。


オフィスに着くと動悸が止まらなくなり、まだ登りきらぬ陽の中を引き返すように会社を早退した。

せめてもの償いのような気持ちで寄った病院の帰り道に、昔好きだったラーメン屋に行った。憐れみか事務的な無感情か判らない医者の眼つきを思い出していた。

炎天だ。

駅まで歩く道の途中でどうしても我慢ができなくなって、コンビニでハイボールの缶を買って一気に身体に流し込むと、少し気分が良くなってきた。

いつも会社の帰り道に散歩しているのとは全く異なる風を感じている。

散歩とは本来、生産性への抵抗であるべきだと昔誰かが言っていた。しかし、仕事が終わって早く眠りにつくためだけの散歩をするようになってから、散歩という行為が己の労働力の再生産の営みに過ぎなくなってしまったように思う。


次の駅まで時間をかけて飲もうと思っていた酒を飲み干し、駅に着く頃には次の酒を開けているのでまた次の駅まで歩く。また歩く。気付いたらすれ違う外回りの営業マンをニヤケ面で見つめ返していた。


いつの事だったか、競馬場に行ったら騎手の落馬した競走馬が、レースが終わってもコースを回り続けていたことがあった。

軛から放たれた馬の足取りの軽さは、草原を駆け回るような爽やかさと共に、得体の知れない何かの訪れを予兆するような不気味さを放っていたのを覚えている。


俺は自分が社会人になれることを誰かに自慢したくて、見せつけたくて、こうして会社員になったように思う。
しかしそれは誰だったんだろうか?頭が回らないせいか、思い出せない。

いつも見えない誰かの視線に絡め取られて身動きが取れなくなってしまう気がする。


視界がいきなり大きく動くと、その片端が地面に覆われた。

ああ、俺は馬から落ちてしまったんだな、と思った。

眩しい陽の差す街の雑踏のなかへと無心で歩き続ける自分の後ろ姿が、段々と小さくなってゆくのを眺めていた。

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