日記(間隙、断絶、継続)

10/20

たまに、「note読んでます」と声をかけてくれる人がいる。

その度に、むず痒い嬉しさと同時に若干の後ろめたさがある。

noteを書くときはいつもロクに推敲も出来ていないし、自分で出来栄えに満足出来たことは殆どない。

「50点くらいのクオリティで出してるものを読ませて申し訳ない」と話したら、

「30点でいいから今の倍出せ」と言われた。
瞬間、少し酔いの覚めた感じがした。

俺は、この些細なやり取りの中に創作における「継続」というものの本質を垣間見たように思う。

当の本人は言ったことすら覚えていなさそうだが、今の自分に欠けているものをぴしゃりと言い当てられたような気がして、妙に記憶に残っている。


10/24

布団のシミに手足が生えたような暮らしを続けている。制作のデッドラインが無かったら手足すら生えていなかっただろう。

共作というのは難しい仕事だ。

自分の思考回路や感性、制作のプロセスやらを言葉で共有出来ないので、結局自分がやるしかないことばかりだったりする。

他人に動いてもらわないと進まない仕事をしている時にしか感じられない孤独感があるような気がする。


10/25

感性などの無意識的な枠組みもまた、言語と共に後天的に獲得されたものであり、それゆえ私だけの感覚といった固有性は信じるに値しないと思う。

世の中の人間が、それぞれ「私だけの感覚」と感じているものがなんと似通っていることか。(!)

インターネットは己の凡庸さを思い知るのにはうってつけのツールだ。

どれだけ幻覚剤を摂取しようとも結局当人の知恵以上の真理を発見できないヒッピーのような物悲しさ。


10/26

文字を書く私の手と、思考の主体である私の断絶。

制作のプロセスというのは、私と私の間の断絶の暗闇の中で蠢いている、私のようで私でないものによって突き動かされているように思える。

それを伝え得ないという意味において制作は孤独であるが、実は制作のプロセスそのものは常に私と私でない私の共作であり、決して孤独な作業たりえないように思う。


10/28

私と私の間の断絶を見つめるのが、私に課せられた仕事なのかもしれない。

思い返せば、私の人生は私と私の間に架かる間隙を如何にして制御するかという技術の問題であった。

感情や思考やらを他人に伝えたり表したりするとき、つまりは、私として社会に接するとき、私は私というひとつの一定の形を保ったままそれらを遂行しなくてはならない。

少なくとも社会というものは私という人間の一貫性や連続性を求めているし、そういった架空の性質を基盤に成り立っているように私には思える。

薬や酒といったものは、私と私の間隙にうずくまる深く暗い渓谷をぐっと縮めてくれる技術なのである。

酒に酔うと同じ話ばかり繰り返してしまうのは、きっと私と私がきちんと重ね合わさっていることへの陶酔である。私という器に私がきちんと収まっている、母体の中の胎児のような安心感である。

私は酩酊の自閉の中で、はじめて一貫した一人前の人格を獲得したように感じる。電車を待つ列にようやく胸を張って並べる気がする。

私を社会の形にしてしまえばなんと生きやすいことか。

しかし、しかしながら、それでも、決して重なり合わず、躁にも鬱にも定まらず、一貫性をもたない私の姿を、引き裂かれた思考を出力し続けることを、己の後ろめたさを、もう少し認めるべきだろう。(!)

映像やビジュアルの作風と全く異なる日記を書き続ける意義もまた、きっとそういうところにある気がする。たとえ30点でも。

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