青年海外協力隊員が間違う異文化理解
皆様、こんにちは。
今回は、『異文化理解』というテーマでお話したいと思います。
結論から申し上げます。異文化理解というのは【新たな文化】を創るというゴール設定に基づいて、コミュニケーションを開始しなければいけないということです。
例えば、青年海外協力隊における異文化理解は、おおよそ2パターンに分かれると思ってます。
①自身の文化という眼鏡をもって異文化を見るパターン
②相手の文化という眼鏡をもって異文化を見るパターン
ある事例から、これらの2パターンを見てみたいと思います。
協力隊として現地に派遣されると、否が応でも異国文化にさらされることになります。そうすると、時間感覚や約束の軽重の感覚が全く異なっているために、約束の時間に来なかったり、(遅れても来ればいいですけど)そもそも約束自体を反故にされてしまったりするわけです。これに対して、約束を破られたと言って激怒する人がいます。それが①のパターンですね。「日本では約束を守るという文化が…云々」言って、自身の感情の正当性を主張し続けるわけです。確かに正当かもしれないし、理路も整然としている。でも、相手も自分の行動に一定の正当性を持っているから、大体もめます。正しいか正しくないかで議論するので、永遠に折り合えません。
もう一つのパターンである②ですが、これは上記のような約束を破られた時のアクションとして相手に完全に同意しちゃう人たちです。「彼らには彼らの言い分があって…云々」で約束を破られたことを全部丸っと飲み込んじゃう。
おおよその人たちがカテゴライズされるこの2パターンには、構造上の共通点があります。それは、「自分もしくは相手の文化の線から1ミリたりとも出ない」ということです。①は自分の文化から出ないし、②は相手の文化から出ない。
異文化理解は「新たな文化」を生み出すための歩み寄り
①も②も異文化理解としては、欠陥しているというのが、私の見解です。なぜかと言うと、異文化理解は「新たな文化」を創出することにこそ、その目的があると思うからです。【あなたとわたし】が居心地よく生活が営める新たな文化を創出するために、互いのローカルな価値観の「外側」に身を置く必要があります。そして、最後は歩み寄りや戦略的妥協によって、【あなたとわたし】が居心地よく生活が営めるように着地しないといけません。着地したポイントを私は「新たな文化」と呼んでいます。事象の善悪を指摘し合っても、何もはじまらないわけです。
例えば、先の例で言えば、やはり自分が迷惑をこうむったり、嫌な思いをしたのであれば、きちんと相手に伝える必要があるし、相手の言い分もきちんと聞かないといけない。まずは、それぞれがどのような価値観や文化に立脚しているのかを明らかにして、その上で『では、どうすればお互いに気持ちよく暮らせるのか』を考える共同作業を開始したいです。わたしはこれが嫌だった、あなたはこういう背景でその言動をした、さてどうしましょうかね、という具合に。
それを感情を爆発させて相手に主張したり、出てきた感情を全てのみこんだりしてしまのであれば、それぞれの文化が交わらずに互いのテリトリーから一歩も踏み出ないままです。それは、およそ異文化理解や異文化交流とは言えない。
その他にもいくらでも例はあります。例えば、アジア人を呼称する際にザンビアでは「チョンチョリ」という言葉を使用しますが(日本語で言うところの「ガイジン」に近いニュアンスですね)、この言葉を聞いたとき、①の人は怒り狂います。涙ながらに怒る人もいて、それを言った当の本人は引いてしまいます。子どもが「チョンチョリ」と言おうものなら「こいつを育てた親出てこい」というように、ともかく怒る。
②は、「まあ、いろんな事情があるから、仕方ないよね」とか言って、我慢している。
いずれも、既存のローカルな価値観から出てこない点で全く同じ構造です。
絶対に感情を爆発させてはいけない
相手にわかってもらいたいときに感情を爆発させて主張するのは再悪手です。確かに感情を爆発させると、一旦は全員が話を聞いてくれます。なぜかと言うと、本能的に人間は感情的になっている人をなだめるからです。例えば、船の例ですね。料理人が感情的になっていたら、提供される食事の質が下がったり、腐った食材を使用したりするかもしれない。航海士が感情的になっていたら、航路を見誤るかもしれない。そんな風に、組織の構成員が感情的になっていた場合には、まずその感情的になっているメンバーをなだめることから始めないと自分の命が脅かされる可能性が高まってしまうわけです。だから、本能的にまずはなだめる、それが人間なのです。言い分の是非を問わず、まずなだめる。
ただ、感情的になって周りが話を聞いてくれるのは、ほんの一瞬です。
本当に相手に何かを伝えるときには、冷静に言葉を選んで相手の表情などを読み取りながら、伝えることが必要です。
「みんな思っているにちがいない」という発想が感情を爆発させる免罪符になる
先の例で、「チョンチョリ」という言葉に怒り狂うのは、「みんな嫌だと思っているにちがいない」という無根拠な前提を採用しているケースが多いです。つまり、自分はマジョリティであると無意識的にも認識している場合において、人は感情を爆発させる。世界でたった一人自分しか「それ」を語らないという局面においては、人は感情を爆発させることは原理上あり得ません。なぜかと言うと、余計なことで伝える相手の気分を損ねてしまうと、聞き入れてくれなくなるからです。
政治的主張はさておき、自民党(マジョリティ)よりも共産党(マイノリティ)の方が、繰り出す言葉使いに慎重なのは、そういうことです。
まとめますね。
異文化理解は新たな地平(=文化)を切り開くことに目的があり、その時には主張が正しく伝わるような立ち居振る舞い、言動を選ばないといけないということでした。
それでは、アディオス。