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首相の育て方 ~マトリョーシカ最終回を見て~

だれも自分がどうであるというのはわからない

今回のマトリョーシカを見て、改めてそう思った
自分はこうであると思うことによって強さも出るが、自分がわからず流れ流されていくとことも必要だと思う、むしろそっちの方が人生なのではないかと思う

首相という一人の人間が出きることは限られている
首相になれば権力は持てるかもしれないが、実際にそれをどう発動させていくかはわからないだろうし、一部の科学では自由意思はないとされている。それであればなおのこと、周りの環境、周りの人間環境によって、首相の判断は変わってくるだろう

首相を育てる

だからこそ、首相が育つという目線は大事だと思う
首相が育つ環境を作る

日本の自殺率が高かったり、若者の多くに希死念慮を持っている傾向であったり、これは個人の問題なのかと言われたら、そうではないだろう。

全体としての割合が大きいということは社会の問題としてとらえることもできるだろう

若者にとっても生きやすい環境とは何なのか、たのしい環境とは何なのか

そして、同じように首相が育ちやすい環境は何なのか、一人の人間として首相を選び任せるなではなく、全体として日本自体を育てていけるような人が選ばれやすいような環境を作る

誰が見るか

清家一郎と道上香苗の関係のように

「私を見ていてください」と、清家一郎が道上香苗にいう

清家一郎にはハヌッセンがいると考えている
一方清家一郎は自分が何かわからないという
自分がわかっている人などいない、そして量子力学の観測効果のように、誰かに見られることによって出てくる自分があり、見る人によって自分は変わる
人の数だけ様々な清家一郎がいて、清家一郎自身も自分は一体何なのか、ときとして周りの意見を逆輸入するかのように自分のイメージを作ろうともしてしまう
自分がわからない、だからどんな自分であるかを見てほしい、もしくは道上が見ている清家一郎に清家一郎自身がなりたいと思うのかもしれない

でも、結局は何か固定された自分が出てくるわけではない

だからこそ、固定化して誰かを見るのではなく、もうすこし緩やかに人を見れる世の中でありたいと思う

社会の評価基準


あの店がいい、この店は悪いなど、一昔前と比べて人間の目は肥えて、社会の評価基準レベルはは高くなっている
でも評価されてる側の人間は昔と変わらず、大抵は目と鼻と口があり、手足が生えてる人間であり、何かバージョンアップして生まれてくるわけではない

世の中の評価基準変えていくことが必要だと思う
それによって若者の希死念慮に変化が訪れ、選ばれる首相が変わり、首相の育っていく方向性が決まってくるのではないかと思う

次を担う世代のために、リモート稽古のために空手着や道具作成やリアルな稽古出張のために使います。