ただ観る
今日も大学生たちと対話会。今回は「かしこさ」について。
知性とは何か?を考えることで「知性的」であろうとするようであった。
知性とは、もしかしたら「並べて」「深める」ことなのではないか、と思いながら対話に臨んでいた。そして、その発想から「ただ観る」ことの知性への土台を考えた。
「問い」と「仮説」が一つの道だろうと私は考えている。「問い」は「並べる」ことから生まれやすい。状況を俯瞰し、メタの視点をもたないと「問う」ことはできないからだ。
では、「問う」だけが知性を駆動するものか?
「問う」だけに特化した子供は、好奇心に駆動されているが「知性的」というには、何かが欠けている。それは「深めること」である。
深めるには、「検証」が必要になる。検証が必要ということは、「仮説」が必要になる。
では、「仮説」が豊富の大人になっていくと「知性」的になっていくか?それだけでは足りず、「問う」ことが大事になってくる。「仮説」が成り立つ世界だけで生きているのではなく、成り立つか成り立たないかが微妙なバランスになっているときが、知性を最大限高められるポイントなのであろう。
今回の話の軸にしたのは「なにがかしこい」のかは状況によって変わる、という点でもあった。
では、この「問い」と「仮説」を状況に紐づけて考えるとどうなるだろう?
状況をメタ認知するときの「問い」が生まれる。「問い」について「こうなるだろう」という予想を立て「仮説」を生む。状況把握が「問い」と「仮説」に先んじる。
ただ「観察」して事実を集めること、それが「状況把握」につながる。最初に「仮説」という名の思い込み、先入観を持ってしまうとゆがんだ現状認識になってしまい、それによって生まれる「問い」も「仮説」も同じように歪んでしまう。
すべての知性に先んじるのは、そうすると「ただ観る」ことなのかもしれない。
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