一緒に釣り上げる
今日も高校生たちと「てつがくカフェ」。改めて彼らの賢さに感じ入る。
実は話そうと思っていたテーマがあった。
「幸せとは、こころを丁寧に扱うことである」。
ここ数日の道標を、一緒に考えたいと思っていた。
ただ、押し付けるのも野暮だなと思って、流れに任せるがままに話していった。しかし、不思議なことに話題が「こころ」からそれない。ぼくが話題を振っているときならまだしも、彼らが気になることそれ自体が、面白いほど(恐ろしいほど)「こころ」についてだった。
彼らと考えた「こころ」とは、なんだったろうか。
一つは感じることであろう。対話の途中で3分の瞑想をした。気は下がり、落ち着いた雰囲気の中、どこか感覚がつながっているかのような心地がした。
感じることは、世界を立ち上がらせることだ。
見えないものも、言葉にできないものも、全部含めて、現すことである。
視覚にも聴覚にも嗅覚にも、ただの一つの感覚にも頼らない。ただはっきりと感じることだけを感じる。
身体の中の、何かがつながっていく。「その感じ」を各人がなんとか伝えたいと持ち寄っていた。
こころのもう一つの側面は「ことば」にある。
ことばのこころと、ふれるこころと。
語り合うことで、自分の中を探ることで、ピタリとくることばを見つけようとすることで、僕たちはことばの重要性も確かめあった。
ことばがあるからこそ、「分け合えること」と、ことばがあるからこそ「切り離してしまうこと」と。
そのジレンマの前に、一緒に立って、向かっていた。
こころは孤独である。
こころはつながりたい。
こころを光らせることが、一つの幸せ。
こころの変化を「学習」という。
学び続けるのは、そのため。
あー。ことばにできない。
あー。こころにできない。
ここから先は
¥ 100
本文は基本的に無料です。読み終わった後、ちょっとでも「はっ」とするものがあったら、「投げ銭」をお願いします。本を購入する資金にします。その数百円が、かけがえのないものになります!