誰がいっているかの意味を考える
世の中、「何をいっているか」ではなく、「誰がいっているか」で判断する人が多い。
それは、一種の肩書きみたいなもので、「発言力」が変わる。
もちろん、私も「この人が言っているから」という重み付けをするから、差異はない。だが、納得がいかないのは、「発言権」がなくなる状態である。肩書きがないと発言が「ないことにされる」のは、
それは、本当にくそみたいだなぁと常々思っている。
しかし、先日心動かされた大久保寛司さんの講座では、「なにをいっているか」よりも「誰がいっているか」ということを話されていた。
まずい・・・。これだけ心動かされることを言っているのだから、きっとそうなんだろう・・・。でも、これまでの「納得のいかなさ」からおいそれと「誰が言っているのか」なんか認められない・・・。
お話を聞いてから2ヶ月ぐらいたった。実はまだ考えてている。何を伝えたかったのだろうか。
さっき、「アンチテーゼ」について考えていて、ひとつ、思い付いたことがある。自分の信念も、寛司さんのおっしゃったことも両取りできるポイントだ。
それは、「この人は何を想って発言しているのだろうか」という点で観るのが必要だということである。
寛司さんのお話は、徹頭徹尾「人格」のお話だった。リーダーとは、人を幸せにする人、というお話の通り「その人が人を幸せにするためにその発言をしているのか」「それとも違う関心から来ているのか」を見定めることが大事、ということだったんじゃないだろうか。
空気はごまかせない。
とするならば、その人の想いもごまかせない。
とするならば、その人がなぜその発言をしているのかもごまかせない。
すなわち、「何を想って発言しているのだろうか」が、「何を言っているのか」よりも大事になってくるのだろう。
それが、「誰が言っているのか」の本質ではないだろうか?
つまり、「誰が(どんな状態で)言っているのか」という見方である。
ついつい「他の人の幸せのため」ではなく、「自分の論理の正しさの証明」のために発言してしまう身としては、痛い思いだ。西條さんにコメントいただいた「アンチテーゼ的」というのも、その側面からきてるのかもしれない(こちらはまだもう少し練りが必要)。
さてここで疑問になるのは、このコラムは、一体何を想って発言しているのだろうか?ということである。
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