来世も一緒に居よう

2024年は命がすごく近くにあった。
忘れたくないので記しておきたい。


9月末、老衰で祖父が亡くなった。98歳、病気もせず最後まで祖母のことを大事に想う優しい人だった。

その時、私のお腹には9ヶ月の子が居た。
日本の風習は面白く、妊婦が火葬場にいく時はお腹に鏡をしのばせないといけないらしい。邪悪なものを跳ね返してくれるんだそうな。迷信かもしれないけど一応ポケットに忍ばせておくことにした。うちの家系は長生きなので、人生初の火葬場。金は無いし来るのも親族のみなのでお葬式はしないとのこと。祖母は少しボケていてホームに入っているので連れてこれなかったので、母と従兄弟の家族、あとは遠い昔に会った事のある祖父の弟が2人。98歳まで生きると有名人でない限り、集まる人数はこんなもんなのかなと思う。


順番が来た。火葬路の前に並びお見送りをする。
中に入っていく祖父の棺桶を眺めていると何とも言えない感情に見舞われる。

身体とは、魂とは。

私にはお腹に命と呼ばれる物体が存在しているが感情や性格、知能はなく"ただ存在している"だけ。水中で逆さになって、空気ではなく羊水を飲んでは排出して循環する生き物。まだ人間では無さそう。もしかするとお腹の中にいる十月十日というのは実は私たちの時間軸と違っていて、とてつもなく長い何億光年をかけて来るのかもしれない。お腹の中から出てくる時に水の中での一生が終わり、出てくる時に新しく生まれ変わるのかもしれない。お腹に宿った命と過ごす日々は不思議で仕方なく、そんなことを考えていた。

数日前に亡くなった祖父の身体からは祖父の感情、性格、くせ、知識や生きてきた思い出がすべて何処かへ行った。そのすべてのことを人間は"魂"と呼ぶのであれば、それは確かにそこにあった。今きっと身体は空になり、”人間だった物”になった。身体は乗り物だとよく言うが、初めて本当だと思った。そして祖父の魂は次の場所へ向かったのだろう、来月産まれてくるお腹の子のように。そう考えてみると、死は終わりではなく始まりで、始まりは終わりなのかもしれない。

爺さんはずっと大工ですごく丈夫だったようで、太い骨もたくさん残っていた。誇らしく思った。お骨を壺に入れる時、ずっとかけていた眼鏡を頭蓋骨の上に乗せて入れた。骨になっても爺さんだった。

年老いた祖父母は近所の寺とも長年交流が途絶えていたらしく、お墓に埋葬しないことを決めた母と姉は骨の行き先を悩んでいた。

母とその姉は、兄と仲が悪い。祖父母は長男を可愛がり、60過ぎた今でも実家において年金を食い尽くさせている。火葬場にも来なかった。祖父母の家には仏壇があるのだが、母姉妹は兄に会いたくないからお骨を置きにいけないと苦言を吐いていた。兄の顔も見たくないと。

孫の私たちはそんな兄弟喧嘩を馬鹿らしく思っている。従兄弟と3人で、祖父母の家に骨を置きにいくことにした。骨が適当に扱われるのはみていられないよ、君たちの父親である以前に私たちのおじいちゃんなのだから。

祖父母の家は思ったより汚れていなかった。叔父はもう70近く、本人も介護を必要としているらしい。私たちが来たことに驚いた様子もなく、悲しいそぶりも見せず、小言を吐いていた。彼は歳をとり独り身で古びた家で、毎日何を考えているんだろう。

私は魂がこの身体にあるうちに、いろんなところへ行きたいし、美味しいものもたくさん食べたい。大好きな人たちと爆笑をしたい。


従兄弟の家へ行くと、祖父の最後の荷物が置かれていた。
老人ホームで祖母の誕生日に送られたカードには2人で撮った笑顔の写真に

愛する妻へ
来世もよろしく
いっしょにいよう

と書かれていた。残された祖母は愛する旦那が先に旅立ったことを忘れてしまっている。

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