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未来も絶対に幸せだと思う、と友達が言った
アイルランドでの旅を終え、今度は留学中の中学の友人、Aに会いに北欧を訪れた。
元はAと二人で過ごすつもりが、また別の留学中の同級生Bも同じタイミングで北欧にやってくることになったらしく、三人でAの部屋で過ごすことになった。
私は友人と会う時は基本1:1が好きで、グループ、つまり三人以上が得意じゃない。この話の連絡が来た時、ほんとのところ、二人同時に同級生に会える喜びと同時に、ああ三人か、と腰が重たくなった。
北欧は日中でも氷点下の気温。15時すぎには日が沈んでしまうために、外のお店も18時には閉まっている場所が多かった。滞在中の夜はスーパーで食材を買って、Aの住んでいる寮のキッチンでみんなで料理をした。
旅行でありながら、三人でそこに暮らしてるような生活だった。ある日は野菜のオーブン焼きとソーセージで簡単に済ませ、ある日は鶏肉と白菜の白だし鍋をつくり、〆にラーメンまで入れて、みんなで身体を温めた。
正直言えば、野菜は間違いなくイタリアの方が美味しかったし、鍋だって日本から持ってきたプチッとキューブの方がしっくりくる味だとは思ったけど、そこには味の美味しさに勝ってしまう、人と食べることの温かさという旨味があった。
鍋を囲みながら、お互いの最近の生活のことやら、日本社会のこと、これからの自分たちのことを話したりした。三人いれば、同じことを思っていてもその捉え方は少しずつ違っていたり、全く同じだなんてことはなくて、こういうのはこういうので面白いと思えた。
でも、とある瞬間、私はだめになった。
「なんでかわからないんだけど、私、この先の未来も自分が幸せでいるっていう謎の自信がずっとあるんだよね」という、Bの言葉がはじまりだった。私はどきっとした。そこに、Aが「うん、私もそれある」と返した。また、どきっとした。
「事実がどうかっていうより、どう思うかは自由だからね」
「そうそう」
私は、言葉が浮かばなかった。そうだよね、とも、そうなんだ、とも言えなかった。言ってることはその通りなのだけど、それは私には理解できないことだった。でも多分、これは二人に言ってもわからないだろうな。そんな気もした。
その後の沈黙は、ひとり孤独で、静かだった。椅子取りゲームの円の真ん中に立たされて、みんながお題を待っている時のような。そういう、私のための、静寂の時間だった。頭の中でいそいで次の言葉をさがした。
はっきり言って、私には、彼女たちのような自信はない。努力は必ず報われるという言葉はいつからか信じられなくなってしまったし、自分にいい未来があると思うのが怖くなってしまった。
ようやく出た言葉は「それって、すごいことだと思う」だった。そう言った瞬間、ようやく三人の会話に戻ってこれた感じがした。それでもやっぱり三人の中での孤独さは残り続けた。
幸せでいられると思う、と信じる人は、本気で、真正面から人生を生きようとしている証拠なんじゃないか。
そのことに気づいたと同時に、私は自分が、自分の人生を生きる覚悟がまだできてないんだなと知った。どこがで、起こしてしまった失敗を引きずって、何かのせいにして、過去の栄光に縋って、こうしたら良かったのかもと選ばなかったほうの道を悔やんだりして。
私はまだ、未来も幸せだと思うなんて言い切れない。友人たちのいう通り、事実がどうというより気の持ち方なのだから、どう思っても自由なはずなのだけど。それでも、私は言えない。
未来はわからないけれど、せめて、今、幸せと思いたい。そう願いながら、鍋の底のあと少しのラーメンを見送り、ひとり箸を置いた。