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選ばれなかった。そして、選んだ。〜高校時代に起きたパンデミックと、それからのこと〜

2023年4月。20歳。
私は、イタリアで暮らし始めた。

海外に行くことは中学生の頃からの夢だった。
外国の人と話すのが好きだったし、日本にはないようなフランクな関係性が憧れだった。

そんな私は、都内にある私立の中高一貫校に通っていた。

大学受験を考え始めたのは、中学2年生の時だった。

尊敬していた部活の先輩が通っているという塾に興味を持って、中学生ながら、受験間近の高校2年生に紛れて、推薦受験対策の塾に通っていた。

そこにはトイレの研究とか、ブロックチェーンの研究だとか、何かしらのオタクが集まっていた。さりとて私は、彼らのように夢中になれることはこれと言ってなかった。

塾の先生は、まだ2年もあるんだし、これからゆっくり一緒に見つけて行きましょう、必ず合格に導きます、と強く背中を押してくれた。

しかし、気づけば、あっという間に時は過ぎ、私は高校2年になっていた。

塾の中でいつも肩身の狭い思いをしていた自分が、年長者になっていた。知らない間に新しい塾生がどんどん増えていっていた。顔馴染みだった先輩たちは階段横の「**大学合格!おめでとう!」というコピーと共に笑顔の写真を残し、そして去っていった。

あんなに自信なさそうだった××先輩でも●●大学か。なんて、生意気なことをのんきに思っていた。

大学の知名度や学べる内容は大事だが、私は何より大学のキャンパスやそこに通っている学生の雰囲気を大事にしていた。とりあえずどこかしらの有名大学に行けるだろうから、という迂闊な理由で入塾したはずだったが、そんな私にもここに行きたい!と思えるような大学との出会いがあった。

高校1年生の夏だった。

それでも、まだ、自分の研究したいことがわからず、ただひたすらに塾内のコンテストや夏休みのプログラムに参加していた。

学校では、世界史の単語帳と向き合っている友人の横でパソコンを開いて何かしらのスライドを作っているのが私だった。塾内のコンテストでは私のチームが必ずと言っていいほど優勝した。

学校の成績はそれなりによかった。勉強も部活も塾のプログラムも、すべてがうまくいっていた。行きたいと思える大学は一つだけだった。そこにだけ、行きたかった。

そして、高校3年生になる直前の冬、例の流行り病がやってきた。

ある日の昼休み、中国で、何やら恐ろしい風邪が大流行しているらしい、というツイートを友人が見せてきた。人々がベランダから叫んでいる動画だった。

のちに、世界中で大流行する脅威だなんてことは予想だにしていなかった。私は小論文のための資料を机に広げ、友人は弁当箱の横に単語帳を置きながら、いつものように昼食をとっていた。

六限の後の掃除の時間に、ニュースで全国の学校が休校になると発表された、という噂が流れた。

高校2年最後の学年末考査を前にしていて、教室はざわついていた。この試験の結果で評定を上げなければ、志望校を受験できないから、と必死に勉強していたクラスメイトは泣き出し、一般だから評定なんてどうでもいいと常に豪語し、毎授業を睡眠時間に充てている友人はガッツポーズをしていた。

私は試験があるかないかなんて、どっちでも良かった。それより、そんな嘘みたいなニュースが本当なのか、疑っていた。

その日の終礼にはいつもより十分遅れで先生がやってきて、すぐに校内放送がかかった。

重要な話がある時にアナウンスする男性教諭が、明後日から学校が休校になること、明日をもってすべての荷物を持ち帰らなければならないためキャリーケースの使用を特例として認めること、休校がいつ終わるのかは未定であることを丁寧に話した。

放課後、教室は今までにないくらいの騒がしさだった。部活のキャプテンの友人がクラスを回って、「ちょっと一回来てくれる?」と部員全員を呼び出した。

来月には、一つ上の代の先輩たちの卒業式が予定されていた。体育会系の部活では、一つ下の代が卒業生のプレゼントを用意することが伝統だった。
「さっきの放送、聞いたと思うけど」とキャプテンは冷静に話し始めた。9人のうちの4人ほどがマスクをつけていて、「マスクってしないといけないの?」と一人が聞いた。

翌朝、私たちは7時に空き教室に集まった。聞き慣れない、いくつかのキャリーケースの音が廊下に響いていた。

放課後になっても、作業は終わらなかった。あまりに突然のことだったし、当然、間に合うはずがなかった。前日には学校からのメールで、今回の卒業式には在校生は参加ができないと伝えられ、その日限りで学校には入れなくなってしまうということになっていた。

下校を促すメロディが校内に鳴り渡り、そして止んだ。クラスにはもう誰ひとりとして残っていなかった。あと少し、というところで、見回りの教諭が私たちのいる空き教室のドアを開けた。

「こんな時間まで集まって何をしてるんだ! とっくに下校の時間は過ぎているでしょう! 昨日のニュースを見てないんですか、あなたたちは! 明日から学校に来てはいけない、ということの重大さが分かっていますか! を守るための行動なんです! すぐに下校しなさい!」

教諭は私たちを本気で叱った。

只事ではないことが、今起きているのだと、私はこの時、ようやく悟った。

翌日、自宅自習日となっていたのにもかかわらず、私たちは大きめの机のあるコーヒーチェーン店に集まって、全員でプレゼントを仕上げた。フラペチーノを飲みながら作業を進め、部活の思い出話で笑いあったりもした。それは、私たちの高校生活で、最後となる、顔を見合わせての時間だった。

***

学校の授業は、すべてがオンラインに切り替えられた。慣れない授業方式に、高齢の先生は明らかに四苦八苦していた。クラスの出席確認を取るのでやっとだった。zoomの四角い枠から見える友人たちの顔を見ても、みんな、知らない誰かのように思えた。

居眠り常習犯の例の友人は、「パソコンのカメラが壊れました」などと言って真っ暗の画面のままで、全ての授業をやり過ごしていた。4限が終わったらリビングで母と弟と昼食を済ませる。テレビでは安倍総理の記者会見が繰り返し報道され、緑色のジャケットに身を包んだ小池都知事が毎日なにかしらの会見を開いていた。

学校の授業を受けているのに家にいるのは、違和感でしか無かった。

高校最後の一年間はずっとこんな風に続いていくのか。このまま大学受験を迎えるのか。そもそも大学入試は行われるのか。ウイルスに罹ったら、死ぬことになるのか。この先も人類は生きていけるのか。私たちに明日はあるのか。すべてが分からないことだらけだった。

「不要不急の外出は避けてください」「ステイホーム! お家にいてください」という言葉を聞きながら、私は毎日一人、机に向かっていた。

学校も、塾も、普段勉強するために通っていたコーヒーチェーン店も、すべてが閉まっていた。

唯一の楽しみは音楽を聴きながら散歩をして、一人でスーパー銭湯に行くことだった。帰り道に濡れた髪が風になびくのが好きだった。季節が移り変わっていって、夏が近づいていることを感じとった。

商店街には人がほとんどおらず、店もスーパーやコンビニが開いているだけで、いつもの通学路は知らない街みたく、真っ昼間でも歩くのが怖かった。ただ、外を散歩をしているだけなのに、なぜか悪いことをしているみたいに思えたりもして、心にはいつも翳りが差していた。

高校3年の受験生の一年間は、やり直しの効かない、そして、人生のかかった一年間なのに、いつもの生活は当然のようにぶち壊された。学校に行くこと、友達に会うこと、塾に行くことは、すべての受験生にとって「不要不急」のはずがなかった。

気づけば夏がやってきて、受験前、最後となる面談があった。

進路指導の先生は、私が中学から例の塾に通っていることを知っていた。高校2年の夏の面談の時から、いわゆる難関有名大学の名前が並んだ、欲張りな進路志望届を眺めながら、「まあ、あなたならやるでしょ」と言った。


学校が再開したことで、仲のいい友人たちと久しぶりに会うことができた。これまでたびたび受験のことを相談し合っていた友人が、話したいことがある、と教室にやってきた。「実はこの期間で色々考えてみて、学校推薦に切り替えることにしたんだよね」と私に打ち明けた。

彼女は高校1年から一般受験で難関大学を目指していて、学校の成績もかなり良かった。部活も辞めて、塾に通い詰めていた彼女が、推薦に切り替えるなんて、私はなんだかショックだった。あんなにたくさん勉強してたのに。
「大学のランクは下がるけど、こっちでもやりたいことができるみたいだから。家からも近いし。悪くないかなって」
そんな軽い気持ちで、これまでの努力を水の泡にしてしまうのか、と唖然とする私の横で、どこか満足げな顔をする彼女がいた。

それぞれの場所でそれぞれの時間を過ごしている間に、みんなの何かが変わっていっていることをまざまざと感じとった。

私は、焦っていた。遅すぎる、と分かっていながら、別の推薦の塾にも通うことを決めた。研究のテーマがいまだにまとまらなかった。有り余る行動力のせいで、興味があることに片っ端から手を出していた。ある程度の実績はあっても、それをどう活かすかがまとまらなかった。

一番早い大学では9月の頭に書類の提出の締め切りがあった。そんな頃に、行くわけない!と思っていた某大学の書類も、締切直前で出願することに決めた。

夜は眠れない日々が増え、起きていてもどこかぼうっとしていて、常に動悸がしていた。明らかにタスクオーバーで、明らかに精神的に参っていた。机の壁のてっぺんには高校1年の時の「私は●●大学××学部に合格する!」と大きく書かれた紙がこちらを静かに見下ろしていた。

絶対にその場所にしか行きたくない、と思っていたが、もしもの時には付属の大学に拾ってもらう、というつもりだった。

古くから私を知っている先生たちも、志望大学の名前を言えば、「あー、そんな感じするよ。合ってる、合ってる」と口を揃えて言った。大学のパンフレットは三年分コンプリートしているし、クリアファイルもボールペンも持っていた。シラバスを印刷して、どの教授のゼミに入るのかも決めていた。

絶対にここに行くんだ。私には、それしか見えていなかった。0か100しか私には無かった。もしダメだったら、というのは考えないようにしていたつもりでもなく、単純に、それ以外という選択肢が見えなくなっていた。私にはこの道しかないんだ、と信じ込んでいた。どうしても、どうしても、その大学に行きたかった。塾のスタッフから、「これだけ評定もあるし、この大学も併願できるよ」と言われたが、そんなことをしたところで、第一志望に行くためのお荷物が増えるだけのようにしか思えなかった。私はすべてのチャンスを捨て、すべてを捧げた。

秋が終わり、冬がやってきた。最終の三次試験の結果が届いた。私は選ばれなかった

それから少しして、7才離れた弟の、中学の合格発表があった。リビングに家族で集まり、パソコンで結果を開いた。弟と母は泣き崩れ、父は弟の頭を撫で回した。彼は合格した。私は、どういう顔をしていいか分からなかった。実際どんな顔をしていたかも検討がつかない。

私は、自分がこれからどうしていったらいいか分からなかった。

昨日までの希望が不合格の三文字で一瞬にして打ち潰された。小学5年生でいじめにあった時ぶりに、しんでしまいたい、と思った。でも、それはあの頃とは少しちがう類のもので、生きるためのエネルギーが丸ごとすべてどこかに吸われてしまったようなもので、息をするのがやっとだった。明日からなんのために生きて、どこに向かっていけばいいのか。ベッドの上の白い天井は曇ったり滲んだりを繰り返した。

気づいたら、付属の大学の入学辞退の紙を受け取りに行っていた。付属の内部推薦を取るつもりの友人たちは、結果の出る秋ごろから毎日のように遊び呆けていた。必死に頑張った自分が、そんな彼らと同じ場所に行くのは自分のプライドがどうしても許さなかった。

母は、「最後まで諦めないで、できることをやってみようよ」と言って、一般入試も受けてみることを勧めてくれた。

一般入試の準備なんて一切しておらず、そのタイミングで勉強する気も起きなかった。小論文や英検が使える形式の大学の一般入試にも挑戦してみたが、どれもこれもだめだった。試験会場の帰り道に、すでに結果はわかっていた。

最終的に、自分が予想だにしていなかった形で、今の大学に合格をもらえた。一度もオープンキャンパスに行ったこともなければ、その大学への興味もなかった。それでも、自分の第一志望の大学でやりたいことの一部を活かすことができる場所だったし、個性や自由を尊ぶ校風も、なんとなく自分に合ってるような気がした。

「大学合格、おめでとう」の言葉は嬉しくも、まっすぐに受け取れるまでには時間がかかった。「どこの大学なの?」と聞かれるたびに、唇がちぎれそうになるほど悔しかった。

入学式はかろうじて行われたものの、キャンパスライフが始まるのはもっと先のことだった。

高校を卒業した後も、コロナ禍は長らく続いた。大学に通うことも、友人を作ることもできないまま、オンラインで自宅から授業を受け、アルバイトをして、なんとなく大学生になった。

オンラインで授業を受けること自体は退屈だったが、教授の面々はどれも個性的で、情熱に溢れていた。とある先生は、「この場所にとらわれず、どんどんはみ出していってください。学生時代はどんどんやっちまってください」と力強く言い、また、別の先生は「僕は出欠席は取りません。大学で学ぶことよりも面白いことってたくさんある。自分で行きたい場所に行ったり、見たいものを見たりして、生のものに触れることこそが本当の学びになるから。ま、授業に来てくれたらそれはそれで面白いことは聞けると思うけどねー」とマグカップを片手に言ったりした。

大学は、授業にしっかり出てノートをとり、単位を落とさず、自分の研究に打ち込み、また、多くの友人や先輩との出会い、そして就活のための「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」を作るための場所だと思っていた私にとって、これらの言葉は衝撃だった。

しかし、そんな言葉たちのおかげでようやく肩の力が抜けた気がした。

大学では多様な人との出会いのチャンスでもあるが、大学生だからといって、必ずしも大学という場所にとらわれる必要はなかったのである。

インカレで知り合った他大学の友人との出会い、居酒屋で知り合った年上の人、ネットでたまたま見つけた記事、本に書いてあった一文、旅先での発見などなど。可能性は至る所に転がっていて、そのうちの一つが大学であるのかもしれない、というだけのこと。

私は、なんだって選ぶことができるのだ、とこの時はじめて気付かされた。

海外へ行くことを考え始めたのは、それから少し後のことである。

感染者数の報道も減っていき、マスクの着用や三密の回避なんて言葉も、段々と聞かなくなっていった。 

私は、誕生日を迎え、成人になった。

母と二人きりでアフタヌーンティーを楽しんでいたその日、私は自分の意思を思い切って伝えてみることにした。

「留学がしたいんだよね」と私が言うと、
「うん。いつか言うかな、と思ってたよ」と母は当然のように返した。

それから、「自分の人生は、自分で選ぶんだよ。親の人生じゃなくて、あなたの人生なんだから」と続けた。

母のこの言葉は、これまでの人生で、最もあたたかく、いちばん幸福感を与えてくれたものだった。

留学するにも世界各国ある中で、私は最終的に、イタリアという国を選び、一人、暮らすことを決断した。

2023年の春、私は一人、飛行機に飛び乗った。

平日週5日の語学学校でのイタリア語の授業、そして、イタリア人のシニョーラとの共同生活が始まった。

ここに来なければ会うことのなかった人たちがいて、彼らのそれぞれの生き方、考え方に日々、驚かされ、魅了されている。

そんなおかげで、私の将来のあり方はふわふわしはじめた。

予定通り一年間の留学で日本に帰国し、日本の企業に就職するかもしれなければ、このままイタリアに住み続けるかもしれないし、世界各国を巡るトラベラーになるかもしれない。選択肢は無限大にある。

そして、自分の信じる道を突き進んでみてもいいが、ときには、吹いてきた風に乗ったりして、運命に身を任せてみるのもいいなと、この頃感じる。

21世紀に、これほどまでの世界的なパンデミックが起こり、はたまた国を超えた戦争が勃発するだなんて、誰が想像できただろう。

思いもよらない予想外の道がひょっこりと現れたり、または、あっさりと消えてしまうこともある。

見えないこと、わからないことを不安ととらえず、面白がりながら、これからの人生を楽しんでいけたら、なんて幸せだろうか。

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