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【ChatGPT小説】夢織りの港町
昨年末にいくらかの休みを取った際になりますが、前回👇に続き、ChatGPT(最新のo1)で小説を制作してみました。(執筆ではないし生成とのみいうにはAIとの共同作業なので制作といったニュアンスですね。)
以下に、本編を掲載します。12話構成です。
プロローグ 最初の訪問
桃ナギが島に降り立ったのは、曇天の昼下がりだった。フェリーを下りた瞬間、潮のにおいが鼻腔をやわらかく刺激したが、それは新鮮というよりも、どこか古びた記憶を揺さぶるような匂いだった。港町は、かつて活気を孕んでいたであろう古い木造の倉庫や、半ば崩れかけた波止場の柵など、薄いフィルムのような寂しさに包まれている。人影はまばらで、タイル張りの路地には、打ち捨てられた自転車や、色あせた看板が斜めに傾いていた。
彼女はまだ自分の棲み処を見つけてはいなかった。荷物はリュック一つ、島の安宿に腰を落ち着けるまでは、この沈黙を孕んだ町を素足で踏みしめるような気分で歩く。安定しない空気、少しぬるく、何かを孕みながら休んでいるような港町。ねじ巻きの音が風の裏側から微かに聞こえそうな、静かでありながら流動的な気配があった。
その翌日、桃ナギは島を少し探索しようと思い立った。午前の光は淡く、どこか半透明の膜を通して射しているような質感を帯びていた。彼女は港から少し奥に入ったところにあると聞いた小さなカフェを目指す。地元で話を聞けば、そこは「南方から流れ着いた男が営む店」らしい。
砂利道を進むと、やがて濃い緑に包まれた小屋が見えてきた。それはカフェというより、軽食堂と温室が結婚したような不思議な建物だった。扉を開けると、熱帯性のつややかな葉を茂らせた観葉植物が彼女を出迎える。板張りの床には椅子がまばらに配置され、古いジャズが小さく流れている。カウンターの奥から現れた男は、痩せ型で、白いシャツの袖をまくり上げていた。
「ココアを一杯いただけますか?」と桃ナギが言うと、男は微笑んだ。「よくこの島に来たね」と言わんばかりの、穏やかな目だった。その声には詩行の端々が残っているかのようで、彼女の胸の内で小さな振動が起こる。
男はまるで熱帯雨林の奥から引き寄せたカカオ豆でも使うかのような手つきで、ココアを淹れる。カップが目の前に置かれると、彼はぽつりと尋ねた。「君はどこから来たんだろうね?」
「どこから、というより、どこへ向かっているのか、私にもわからないんです。」と桃ナギは応じる。
「いいじゃないか、答えを持たずにいるのは。詩を書くとき、僕は空白を愛するよ。空白の中で人は溶け合う。」
男はかつて詩人だったと噂で聞いていた。彼は言葉を置くたびに、小さな揺らぎがカフェの空気を満たした。桃ナギはその揺らぎの中で、ココアの熱さを舌で転がし、遠い南の響きのような男の言葉を聴いていた。
店を出る頃には、空は薄青を帯びていた。帰り道、桃ナギはほのかに甘い葉擦れの音に誘われて、人通りの少ない裏道へと足を踏み入れた。そこには南国植物が繁茂し、小道はいつしか熱帯の森のような空気を帯びている。湿った土と絡みつくような蔦、見たこともない大ぶりの花弁が、静かに揺れていた。
ひょい、と足元で何かが動いた。子犬だ。白くて小さな犬が、道端から彼女を見上げている。その犬は、ふいに口を開いた。
「私は哲学の犬だ。」
桃ナギは驚いて立ち尽くす。犬はまるで人間のように言葉を紡ぎ、それらは断片的で意味を構成しないようにも思えた。
「問いは答えを求めず、答えは問いを通り抜ける。ただし、哀しみには毛穴がある。そこから光が漏れる。」
犬はそんな不可解なフレーズを綴り、首をかしげる。どこかで聞いたような、しかし何処にも属さぬ論理が彼女の耳にしみ込み、まるで体内に小さな音叉を打ち込まれたような感覚がした。
やがて犬は「あくび」をし、小さな丸い体を丸めて眠りに落ちた。それに誘われるように桃ナギ自身も瞼が重くなっていく。彼女は草むらに腰を下ろし、遠くから聞こえる鳥のさえずりや、ありもしない波の音をぼんやり聴きながら、意識を手放した。
再び目覚めたとき、彼女は港に立っていた。さっきまでいた南国の森は跡形もない。擦り切れた古い杭と、微かに錆びた金属音を響かせる漁具が、灰色の光を浴びている。まるで最初に歩いた時間の一幕に戻ったかのようだ。
翌朝、彼女は再びカフェを訪れ、男と南国植物の合間でココアを啜った。男は彼女にこう語った。
「君は昨日、森へ迷い込んだろう?あれは僕にも時々見えるんだ。そこには哲学の犬がいると言う人もいるね。」
桃ナギは静かに微笑んだ。
「その犬は、正直何を言っているかさっぱりわからなかった。でも、まるで自分の内側に別の小さな部屋が現れたみたいなの。」
男は椅子に腰掛けて、宙に視線を漂わせる。
「わからないことは、わからないまま残していい。でも君はそのわからなさの中で、何かを手に入れたはずだ。言葉にならない、一杯のココアのように濃く、深い感覚をね。」
彼女はカップの底に残るわずかなココアを見つめる。その液体は小さな卵のような、あるいは乾いた貝殻のような、正体不明の記憶を孕んでいた。
哲学の犬や詩人上がりの男、寂れた港と、不意に現れた南国の森。どれもが確固たる意味を持たないまま、彼女の心の中で静かに浮遊している。けれど、その浮遊が自分自身を映し出しているようにも感じた。透明な問いかけ、名づけられない再生の予感、空白の詩行。
外に出ると、午後の光は再び薄青く、どこかに開いた小さな裂け目から、彼女は見えない風を感じる。孤独とココアを愛する自分自身が、ここにいることの意味を、問いのまま抱いていく。それは決して解けない謎かもしれないが、その謎は、南方の森の葉陰と、犬の言葉の残響、そして詩人の男が注いでくれたココアに支えられ、不思議に心地よい重みを持っていた。
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第1話 島のほころび
桃ナギが島に降り立ったのは、薄い雲が空一面にかかった、昼下がりに近い時間帯だった。フェリーを下りる際、桟橋で彼女の足音を出迎えたのは、誰とも知れない影法師たちの沈黙だった。港町は相変わらず寂れている。古い木材で組まれた倉庫はその角がじわじわと腐蝕し、ペンキの剥げ落ちた看板は解読不可能な文字をさらしている。かつて人々が行き交ったであろう舗道も、砂や風で薄く曇り、過去の喧騒を想起させる形跡さえ弱々しく滲ませていた。
彼女はリュック一つを肩にかけ、潮の湿った匂いを胸一杯に吸い込んだ。これで何度目の島巡りだろう。いや、思い出せない。まるでこの島が彼女にとって、はるか前の夢から抜け出せない迷路になっているかのようだった。
「久しぶりですね、桃ナギさん。」
不意に声がかかった。見ると、港の裏手にある路地の狭間から、小さな白い犬が顔を出している。哲学の犬だ。耳がたれていて、瞳の光はどこか深い水底のようだ。前回会ったときと同じように、犬はゆっくりと尻尾を振るでもなく、ただじっと彼女を見ていた。
「また来ちゃったの、私?」と桃ナギは犬に向けて声をかける。
犬は首をかしげる。「来ること、去ること、それぞれに意味はない。君が在る、それで充分さ。ただし、この島はほころび始めている。」
「ほころび?」
「問いを抱くとき、人は大抵ほころびを感じる。糸が解け、織物がほつれ、何かが透けて見える。その透けた向こうにあるものが、君を呼んでいるんだろうね。」
相変わらず、哲学の犬の言葉は曖昧で捉えどころがない。桃ナギは肩をすくめ、荷物を背負い直すと、前回訪れた小さなカフェへ足を向けた。カフェは港から少し内陸に入った場所にある。石畳と茂みを抜けると、そこには南国性の植物がわさわさと生い茂る妙な建物が待っている。
扉を開けると、カウンター越しに痩せた男が笑顔を浮かべていた。白いシャツを腕まくりした、元詩人のカフェマスターだ。彼の店は、木漏れ日みたいな小さなランプがいくつも灯り、観葉植物の葉先に柔らかな光が揺れている。ゆるやかな音楽が流れ、静けさと温もりが共存していた。
「お帰り、桃ナギさん。」カフェマスターが言う。「ココアがいいかな?」
「ええ、お願い。」
彼女が椅子に腰掛けると、カフェマスターは小さな窓を開け、どこからか漂う甘い香りを室内に招き入れた。彼は棚からカカオの粉を丁寧に取り、ミルクを温める。手際はまるで詩行を紡ぐようであり、彼女はそれを眺めながら言葉の切れ端を探す。
「ねえ、最近、この島は変わったかしら?」桃ナギが問うと、マスターはふっと笑った。
「島は常に変わっているさ。僕らが知らないところで、糸が解け、言葉が湧く。あの犬は何か言ってた?」
「ほころびがあるって。」
「なるほどね。ほころびがあれば、そこから光が漏れる。あるいは記憶が流れ出すかも。」
ココアがカップに満たされ、桃ナギはスプーンで表面を軽くなぞる。泡立ちの中に、微小な渦がきらめいたように見えた。彼女はそっと一口飲む。その甘さが舌先に溶けると同時に、遠くで何かが軋む音がした。
カフェのドアが勝手に開く。入ってきたのは長衣をまとった小さな影だ。人かと思えば、半透明な形をしており、その頭には獣の耳がぴんと立っている。目元はヴェールで隠されている。
「エフェメリカ公女の使い」と名乗る少女が、室内の空気をひゅっと冷やした。
「桃ナギ様、あなたに告ぐ。公女はあなたを気にかけておられる。遠からず、任務が下るであろう。」
桃ナギは眉をひそめる。「任務? 突然何を…」
だが使いは答えず、植物の陰影の中へとするすると溶け込むように消えてしまう。まるで現実と幻の境界がほつれ、そこから奇妙な存在が顔を出しては引っ込むような光景だった。
カフェマスターが苦笑する。「説明のないことが多い場所だろう? ここは他人の夢の中かもしれないし、君自身の過去が彩る虚構かもしれない。」
「まるで詩ね。」桃ナギはカップを両手で包む。「けれど、私は何をすればいいのかしら。」
「答えはすぐに見つかるものじゃない。ココアを飲み、犬の言葉に耳を澄ませ、森へ踏み入るかもしれない。そして公女とやらが提示する『任務』とやらに向き合うこともあるだろう。」
哲学の犬がいつの間にかカフェの入り口にちょこんと座っていた。
「問いは、光が漏れる小さな穴だ」と犬は言う。「ほころびを縫い合わせることは、必ずしも良いことではないかもしれないよ。ほつれ目から覗けば、他人の夢が見えるからね。君はその夢を旅する、ただそれだけで充分かもしれない。」
桃ナギは息をつき、犬に目を遣る。「私は、またここへ戻ってきた。何かを探してるのに、思い出せないの。」
犬は答えない。ただ、床板のうす暗い木目を見つめている。
カフェマスターが一枚の古びた紙切れを取り出して桃ナギに差し出す。そこには見慣れない文字と、島の不完全な地図が描かれていた。
「これを持っていくといい。南へ行けば鬱蒼とした森がある。それと地下に降りる階段が、港の倉庫裏にあるらしいんだ。博士が何やら新しい装置をいじっているとか。巨人について囁く者もいる。何もかも不確かな断片だが、君が歩けば、また何か見えてくる。」
「巨人? また奇妙な話が出てきたわね。」桃ナギは微笑むが、その笑みは困惑で揺れている。
彼女はココアを飲み干し、カフェを出た。港へ戻る途中、空を見上げると、薄い雲は微かに裂け、その隙間から光がこぼれていた。海鳥の鳴き声が遠くで反響する中、哲学の犬は背後で小さくくしゃみをしたような気がする。
「島のほころび」という犬の言葉が耳に残る。公女の使いが告げた任務は何なのか、この島は誰の夢なのか、自分は何を失い、何を探しにここへ来たのか。答えはまだ遠い。しかし、桃ナギは足元の砂利道を踏みしめた。ほころびは光を透かし、問いはやがて新たな道を開くかもしれない。
こうして、彼女は再びこの不可思議な島の旅を始める。
ここからすべてが奇妙に、淡く、ずれながら進んでいくのかもしれない。
第2話 巨人への依頼
翌朝、桃ナギは島の空気が僅かに変わったことを感じとった。海から吹く風は相変わらずしょっぱいが、今朝はさらに薄甘い香りが混じっている。滲むように差し込む光が、街並みの剥がれたペンキをかすかに照らし、建物の影は長く、かつ脆弱に伸びている。彼女はカフェに向かう前に港を散策し、薄青い海面と微かにきしむ桟橋を眺めた。
すると、ふいに背後から声がした。
「あら、ごきげんよう。桃ナギ様。」
振り返ると、半透明の姿をしたエフェメリカ公女が、昨日の使いと同じく獣耳を揺らし、しっとりとした足取りで近づいてくる。公女は宙に浮くかのような歩き方をし、尻尾についた微細な羽毛が淡い朝陽を反射していた。
「あなたが公女…ですか?」桃ナギは控えめに尋ねる。
「ええ、エフェメリカ公女とでも呼んで。名はいつだって揺らめくもの。昨夜、私の使いがあなたに声をかけたでしょう? さあ、あなたに依頼があります。」
公女は微笑み、まるで挨拶代わりに奇妙な言葉を紡ぐ。「巨人ヨルダマリを討伐なさい。」
唐突な依頼だった。桃ナギは言葉を失う。
「巨人…? 討伐? 私には何のことか…」
「説明は不要よ。」公女は薄く笑う。「ここは他人の夢でできた島、あなたがこの場に立つこと自体が理由なの。あなたは巨人を探し、討つべき運命にある。」
「運命? ……なぜ私が?」
質問が虚空に溶ける前に、公女は指先をひらひらさせ、潮風に滲むように消えた。まるで朝の残光が彼女を呑み込んだようだった。桃ナギは肩をすくめるしかない。巨人ヨルダマリ? 聞いたこともない名だが、この島で意味不明な語が出るのはいつものことだ。
彼女はあらためてカフェへ向かった。緑の葉が繁る小径を抜けると、店内から微かな音楽が漏れている。ドアを開けると、元詩人のカフェマスターが古い磨りガラスのコップを棚に戻しているところだった。カウンターの上には小瓶がいくつも並んでいて、どれも中に淡い色の粉や豆が詰まっている。
「おはよう、桃ナギさん。」マスターが迎える。「今日はココアかい?」
「ええ、お願い。」彼女は首を軽く振って椅子に腰掛ける。「それとちょっと聞きたいの。エフェメリカ公女という存在を知ってる?」
マスターは穏やかな笑みを浮かべたまま、カカオを測りながら答える。「ええ、噂くらいは。彼女はこの島の‘内側’に触れる存在と言われている。なぜか誰もが彼女の名前を一度は耳にするのに、実在するか定かじゃない。あなた、会ったんだね?」
「ええ、それで唐突に『巨人ヨルダマリを討伐せよ』って言われたの。私は巨人なんて見たこともないのに。」
ココアを注ぎ終え、マスターは軽く首を傾げる。「なるほど、巨人ねえ。巨人はこの島のどこかで眠っていると昔から囁かれてはいるが、誰もその姿をちゃんと見たわけじゃない。夢の残滓かもしれないし、記憶の塊なのかもしれない。」
桃ナギはスプーンでココアをかき混ぜ、その香りをゆっくり味わった。
「公女は私に討伐を頼んだけど、正直、従う理由も分からないし、意味もわからないわ。」
マスターは肩をすくめる。「ここはそんな場所さ。何の脈絡もなく、誰かが意味不明な言葉を投げてくる。それをどう受け取るかは君次第だ。詩を書くときもそうだよ。最初は言葉が脈絡なく降ってきて、それをどんな詩に仕立てるかは詩人の腕次第だ。」
「でも私は詩人じゃないわ。私はただ…」彼女は言い淀む。何をしに来たのか、何を探しているのか、自分でももう分からない。
「君は君であればいい。」マスターはそう言い放つ。「意味がつかめなくても、歩み続ければ何かには出会う。」
その時、カフェの入口から小さな影がころりと現れた。哲学の犬だ。
「巨人、巨人と、皆が謳うが、実体のない言葉だね。」犬はちょこんとカウンターの端に座り込み、しゃべる犬が当然かのように続ける。「巨人は姿を見せない。でも、この島の深いところに潜む大きな溜まり、水溜まりのような記憶、あるいは骨、あるいは時間の塊。それが巨人ヨルダマリだと誰かが言った。」
「犬、あなたは知っているの?」桃ナギは半ば混乱しながら尋ねる。
「知らないよ。知識は尻尾に絡まる毛玉みたいなもの。ほどこうとしてもほどけないし、まとめようとしても形を成さない。巨人が何か? 分からない。それでいい。」
彼女はため息をつく。
「公女が私に何を期待しているのか分からないわ。探すあてもないし。」
犬は軽くあくびをする。「港の倉庫裏に、地下へ続く階段があると言われている。あるいは森の中にはクル・ルタルという奇妙な楽士がいて、謎の旋律で道を曲げるとも。いずれ何かの手掛かりになるかもしれない。糸を辿れば、巨人が眠る場所へ行き着くかもしれないね。」
桃ナギはココアを飲み干し、カップを置く。今、手がかりはとても希薄で、ただ散乱した断片が転がっているだけ。でも、この島が他人の夢だとしたら、夢はいつだって支離滅裂だ。意味がわからなくても、夢の中では前へ進むしかないのかもしれない。
「行ってみるわ。森か、地下か。とにかく動いてみる。」
マスターは微笑んだ。「ココアはいつでも用意しておくよ。疲れたら戻っておいで。」
哲学の犬は尾を揺らし、「道はただ君の靴底に委ねられている」と、またわけの分からない言葉を残す。
店を出ると、昨日とは違う気配が町を包んでいた。路地裏を覗くと、見慣れない蔓草が壁に張り付き、奇妙な花が咲いている。どこからか微かな旋律が聞こえた気もするが、風が揺れただけかもしれない。
桃ナギは港まで戻り、倉庫群の裏手へと足を向けた。板壁は朽ち、鉄の扉は錆び、足元のタイルは欠けている。その隙間に、確かに鉄製のハッチがある。中へ降りる階段が闇へ続いていた。この先には何がある? 意味不明な装置を操る博士か、怪しげな発明か、南国の森か、それとも巨人の影か。
巨人ヨルダマリを討伐せよ——公女の依頼は突拍子もない。だが、この不可解な指令は、彼女がこの島を動き回るための小さな導火線になるかもしれない。夢の中を歩くように、桃ナギは暗がりへと足を踏み入れる。
重い鉄のハッチが微かな音をたてて閉じたとき、地上では哲学の犬が静かに鼻を鳴らした。問いと意味が絡み合い、解けないまま、島はまた一瞬、薄甘い風を孕む。
こうして、桃ナギはよくわからない「任務」を胸に、地下へと旅立った。何が待ち受けているのかは、誰にも分からない。島はほころび続け、巨人の名だけが宙を舞う。
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第3話 クル・ルタルの旋律
桃ナギは暗い階段を一歩ずつ下った。鉄製のハッチの上から入り込む光はほとんどなく、足元のタイルはしっとりと湿り気を帯びている。壁には苔のようなものが張り付き、かすかに塩の匂いがした。この島が海に囲まれていることを、こんな地下通路でも感じさせるのは妙なことだ。
薄暗い通路を進むと、やがて小さな扉が現れた。古びた木の板で組まれ、鍵はかかっていない。桃ナギがそっと押すと、意外なほど軽く開いた。内部は小さな部屋で、壁には奇妙な器具が散乱している。試験管のようなガラス筒、歯車の固まり、長い管状の金属部品……どれもが意味不明な形をしている。その中央で、背の曲がった老人が雑然としたテーブルに向かって何かいじっていた。
「ええと……」声をかけると、老人は振り向いた。髪は灰色で口ひげが長く、濁った眼差しは桃ナギを追うが、どこか遠くを見ているようでもある。
「君は……誰だね?」
「桃ナギと言います。外から来たんです。ここで何をしているんですか?」
老人は鼻を鳴らし、奇妙な器具を手に取る。「私はヴィスカコッポ博士。見ての通り、世界の理を研究している。『マニロース管』を使えば巨人ヨルダマリが見えるかと思ってね。だが、なかなかうまくいかない。」
博士は何の脈絡もなく巨人の名を口にした。桃ナギは少し驚く。「巨人ヨルダマリ……やはり存在するんですね。」
「いるかどうかは知らん。だが、噂はある。巨人は時間がねじれて生まれる影、あるいは記憶の坩堝。『ゲトロジウム』が完成すれば、観測できるかもしれんが……」博士はまた無意味な専門用語を吐き出し、混乱しているのは自分か世界か分からぬ様子だ。
桃ナギはこの場所から何も得られなさそうに感じ、扉の外へ戻ろうとした。すると、博士は唐突に「地上へ戻るなら気をつけろ。ニュラ・ステーションを通るかもしれないぞ」と言い残す。それが何を意味するか分からないまま、彼女は来た道を引き返す。階段を昇ると、先ほど入ってきたハッチから淡い光が差し込んでいた。開けた覚えのないのに、扉は半開きになっている。
地上に戻ると、空は薄い水色で、微かな旋律が風に溶けていた。倉庫裏から路地を抜け、森の方へ足を向けると、周囲の空気が少しずつ変わっていく。木々は南国特有の艶やかな葉を広げ、赤や紫の奇妙な花が咲き乱れている。どこからか流れてくる音がある。弦が震える音、風に裂け目を生むような、不安定な音階。
森の奥へ進むと、葉っぱの向こうに、奇妙な人影が見えた。鳥の嘴のような仮面をつけ、長いローブをまとった楽士――クル・ルタルと呼ばれる存在だろう。彼は何かしらの弦楽器に似た道具を抱え、その弦を指で弾いては、か細い旋律を紡ぐ。その音を聞くたびに、木立はわずかに揺れ、路面がぬめるように光る。
「あなたが……クル・ルタル?」桃ナギは声をかけてみる。
仮面の下から、低い声が響く。「私は音を紡ぐ者、クル・ルタル。君はこの島を歩く夢の旅人か。」
「旅人かどうかは分からないわ。私は巨人を探せと言われている。巨人ヨルダマリを……」
その名に反応したのか、クル・ルタルは弦を優しく撫でる。すると旋律が不意に歪み、周囲の景色が奇妙に波打った。足元の道がうねり、先ほどまで何もなかった場所に、駅のホームらしきものが出現する。
「ニュラ・ステーション……」桃ナギは思わずつぶやく。さっき博士が口にした言葉だ。ここは森の真ん中なのに、なぜ駅がある? ボロボロの看板、朽ちたベンチ、一両だけ止まった木製のトロッコ。誰もいないホームには、葡萄色を帯びた夕焼けのような光が差し込む。さっきまで昼だったはずなのに。
「音は道を曲げ、世界を捻じ曲げる」とクル・ルタルは言う。「君が巨人を探すなら、直線ではなく曲がりくねった旋律に身を任せるといい。ニュラ・ステーションから降りれば、地下へ行くことも、違う時間に行くこともある。」
「違う時間?」桃ナギは混乱する。
「この島は他人の夢。夢の中で時間が直線を保つ必要はないんだ。」クル・ルタルは仮面越しに微笑んでいる気がした。
桃ナギは駅のホームに足を踏み出す。木材が軋み、乾いた空気が鼻を突く。遠くから哲学の犬の声がしたような気がする。「問いは空を漂い、答えは遠い階段に落ちている……」
思わず振り返ると、哲学の犬は見当たらない。しかし、かすかに犬の残響が耳元で揺らめく。クル・ルタルは旋律をまた一度弾く。その瞬間、桃ナギが立つホームは微かに震え、彼女はまるで足元から地面が溶けるような錯覚を覚える。
「怖い?」クル・ルタルが問う。
「少し……でも、進まなきゃ何も分からないもの。」
「進む必要があるなら、進めばいい。君が巨人を求め、あるいは逃れているものがあるのだろう。音は手助けをするが、道筋を教えるわけじゃない。そう、詩人の言葉と同じさ。」
クル・ルタルが最後の和音を鳴らすと、森の木々が溶解するように消え、一瞬で光が暗転した。桃ナギは目を閉じ、再び開けると、そこには奇妙な地下への斜道が伸びている。ニュラ・ステーションはどこへ行ったのか、分からない。ただ、あの駅を経由したことで、世界がまた捻じれた気がした。
彼女は手がかりを得たのだろうか? 巨人ヨルダマリは、記憶か時間の塊のような存在、あるいは島そのものの秘め事であり、クル・ルタルの旋律はそれを求めるための歪んだ小径を開いたに過ぎない。
足元には湿った土、薄暗い道。彼女は再び地下へと潜る。この先には何がある? ヴィスカコッポ博士の言う“マニロース管”を動かす装置、あるいは粘菌を操るという謎の存在、南国植物が埋め尽くす空間、そして遠くで眠る巨人の気配――すべてが断片であり、詩行のようにつながりが不確かだ。
桃ナギは一歩踏み出す。クル・ルタルの旋律はもう聞こえない。哲学の犬もカフェマスターも、公女も遠くにいる。でも、この奇妙な感覚が、彼女の足元に細い糸を残し、やがてそれが巨人への道しるべになるのかもしれない。
闇と光が交錯する中、彼女は歩みを進める。世界はほころび続け、そのほころびから奇妙な言葉、夢、旋律が漏れている。巨人の存在を確かめるには、まだまだこの旅は続く。
第4話 地下への降下
桃ナギは、クル・ルタルの旋律によって捻じ曲げられた道を辿り、またしても地下へと潜り込んだ。そこはさっき通った階段の延長ではなく、まるで別の夢へと滑り込むような不安定な空間だった。光源らしきものはないのに、視界は薄く明るい。壁は苔むしており、水滴が一定のリズムで床へと滴る音が、静かな子守歌のように空間を満たしている。
足元には、光沢のある小さなタイルが敷き詰められ、ところどころ割れている。割れ目からは柔らかな光が漏れ、蜘蛛の糸のような繊細な輝きで周囲を照らしていた。その不思議な光が桃ナギの影を揺らし、まるで彼女自身が細い糸に吊るされた人形のような、不確かな存在に思える。
「ここは、いったい……」桃ナギが呟くと、闇の中から微かに物音がした。
「誰か、いるのですか?」彼女は声を張り上げる。返事はない。けれど、その沈黙がただの無音ではなく、何かを孕んでいる気配がする。
進むうちに、奇妙なからくりめいた扉が現れた。金属製の歯車、大小の管、奇妙な紋様が絡まり合った、機械とも生物とも判じがたい扉だ。彼女が手を伸ばすと、かすかに扉が震え、勝手に開いた。その先は、小さな部屋。中央に円形の台があり、その周囲には奇妙な器具が並んでいる。ガラス球、らせん状の鉄パイプ、回転する水晶――どれも何の役割を持つのか見当もつかない。
ふと奥から声が聞こえた。「マニロース管が……マニロース管がまだ不安定だ……」
その声は前に会ったヴィスカコッポ博士に似ている。
「博士?」桃ナギが呼びかけると、暗がりから瘦せた老人が姿を現した。先ほど港近くの地下室で会った時と同じ、しかし微妙に服装が異なる。こちらの博士は、白いゴーグルをかけ、奇妙な紋様をあしらった上着を着ている。
「おや、君か。前にも会ったかな? 記憶が定かではない。」博士は無表情に首を傾げる。「ここはマニロース管の試験場だが、まったく安定しないんだ。ゲトロジウムが足りない……ゲトロジウムがね、あれば巨人ヨルダマリの姿を映し出せるかもしれないというのに。」
マニロース管、ゲトロジウム、巨人ヨルダマリ——相変わらず不明瞭な専門用語ばかりだ。桃ナギは質問を試みる。「博士、巨人は本当にいるの? 私は公女に『巨人を討伐せよ』と言われて……でも、まるで実体がない話ばかり。」
「実体か? 実体なんてものが必要かな?」博士はくぐもった笑いを漏らす。「夢の中で実体とは何だろう? 巨人ヨルダマリは時間や記憶が溜まった瘤のような存在だ、と言う人もいる。君がその瘤に触れることで、何かが解けるかもしれん。まあ、私は装置をいじるしか能がないからね。」
桃ナギは台座の上にあるガラス球を見つめる。中に薄緑色の液体が揺れ、その中で小さな粒子が舞っている。
「ゲトロジウムって何?」
「さあね、私も知らんのだ。ただ、そう呼ぶことにしている。」博士はひらりと手を振る。「言葉は名前を与える道具だ。意味は後からついてくる。君は哲学の犬が『問いは尻尾に絡まる』と言ってたのを聞いたかい? あれと同じだ。」
彼女は微かな苛立ちを覚えたが、同時にこの混沌は詩的であるとも感じる。答えを求めても、明確なものは出てこない。
「博士、私は巨人を探し、何かをしなければならないらしい。でも、どうしてこの島はこんなにも脈絡がないの?」
「脈絡? 脈絡は夢から逃げるための梯子かもしれない。梯子がなくても、君は歩けるだろう?」博士はそう言うと、また器具をいじり始める。「階段を戻れば、森に戻る道がある。そこには粘菌使いがいるらしい。粘菌使いが森の構造を知っているとかいないとか……私には関係ないがね。」
粘菌使い、クル・ルタル、哲学の犬、エフェメリカ公女……この島の住人たちは皆、隠された謎の片鱗を握っている。桃ナギはため息をつき、小さく頷く。
「わかったわ。また動いてみるしかないわね。ありがとう、博士……なのかな?」
博士は気にも留めず、金属片を弄り続ける。「グオングオン、マニロース管が鳴ってる……ああ、意味のない響きがいい……」
部屋を出ると、先ほどの扉はいつの間にか別の細い通路に繋がっていた。通路を抜けると淡い光が射し込み、階段が上へと続いている。桃ナギは階段を昇りながら、ふと、自分はこの島でいったい何を探しているのか、もう一度考える。巨人を探せと言われ、不可解な博士に会い、奇妙な音楽を聴き、地下を彷徨う。だが、確かな進展は見えない。
階段を抜けると、そこには再び森の気配があった。南国性の葉が揺れ、湿り気を帯びた空気が頬を撫でる。遠くで鳥が鳴き、不意に笑い声のような風が吹く。彼女は地上に戻ったのだろうか? いや、もはや上下の区別すら曖昧だ。
「君はまだ答えを求めているのかい?」不意に低い声が響く。振り向くと、哲学の犬がいつの間にか足元に座っていた。
「ええ、でも答えなんてないのかもしれない。」
「答えがないことは、答えの一形態かもしれないよ。」犬はあくびをし、森の向こうを見つめる。「そこに粘菌使いがいる。行ってみるといいさ。森は光と影が入り混じり、形が溶け合い、巨人の気配もそこで呼吸しているとか。」
桃ナギは犬に礼を言い、森の奥へ踏み込む。
後ろを振り返ると、既に博士の地下室への入り口は見当たらない。あのマニロース管やゲトロジウムは何のためだったのか、あれは現実か幻だったのかさえわからない。それでも、彼女は進む。詩のような島の輪郭に触れ、ほころびを覗き込むことで、やがて巨人に辿りつくかもしれない。
森の木立が濃くなるにつれ、彼女の心には奇妙な落ち着きが芽生えていた。問いかけは解けず、意味は曖昧なまま。それでも足を前へ運ぶことで、何かを得ている気がする。巨人を探す任務は遠く、輪郭も不明瞭だが、旅自体が詩的な問いへの応答なのかもしれない。
南国の森へ足を踏み入れる桃ナギの背中越しに、哲学の犬は静かに尻尾を揺らす。島はほころび続け、地下の記憶は上昇し、光は柔らかくねじれながら彼女を導いているようだった。
第5話 南国の森と粘菌使い
森はまるで巨大な温室だった。青々とした葉、赤く垂れ下がる果実、花弁に露を湛える花々――いずれも南国的な艶をもち、桃ナギが立ち込める湿り気と独特の甘酸っぱさ、そして土の匂いが混じりあう。上空は幾重にも重なった葉とつる草が日光を濾過し、淡い緑色の光が満ちていた。先ほどまで地下で薄暗さに包まれていた彼女の目には、この森が揺らめく色彩の万華鏡にも思える。
哲学の犬は先ほどまで一緒にいたはずだが、気づけばどこにもいない。いつもそうだった。犬は示唆的な言葉を残して、次の瞬間には姿を消してしまう。桃ナギは一人、森の内部へと歩みを進める。
足元に広がる苔の絨毯がしっとりと柔らかく、一歩踏み出すたびに沈み込むような感覚がする。すると、目の前の低い茂みがさざめき、小さな生き物が走り抜けたように見えた。葉の裏には白い胞子嚢のような塊があり、それを蹴散らすようにふわりと細かな粉が舞う。
――粘菌使いがこの森にいるらしい。
桃ナギは博士や犬の言葉を思い出す。巨人ヨルダマリに関する糸口は、奇妙な専門家たちに隠されているようだ。この森に棲むという粘菌使いは、環境そのものを操るらしいが、実態はわからない。
足を進めるうち、ふわふわとした淡緑の塊が目の前を横切った。人型に近いが、その全身を苔や菌類が覆っている。長い蔦が腕のように垂れ、髪の代わりに透明なキノコの笠が揺れている。それは桃ナギに気づくと、ややかしげた首のような部分を揺らした。
「あなたが……粘菌使い?」桃ナギは静かに問いかける。
その存在はゆっくりと口らしき部分を開く。「私をそのように呼ぶ人もいる。名は変幻する。私は森を紡ぐ者、アザラ粘菌使いといえばよかろう。」声は湿った落ち葉を踏むように柔らかく、どこか甘い。
「私は桃ナギといいます。巨人ヨルダマリを探していて……」
「巨人ヨルダマリ……」アザラ粘菌使いは低くつぶやくと、森の空気が少しひんやりと変わった。「それは夢の凝縮体、あるいは忘却の残滓。あなたが探しても、その姿はそう簡単には得られない。なぜなら、それはあなたが忘れている記憶そのものかもしれないから。」
「私が忘れた記憶?」桃ナギは戸惑う。「私は……何かを探しにこの島へ来た気がするけど、何を探していたのか思い出せないの。」
「誰もが欠片を失くし、欠片を求める。この島は、失われた欠片を抱える人々の心象風景かもしれない。」
「欠片……」彼女は足元の苔を見つめる。ここへ来て以来、確固たる目的や知識が何一つ得られていないように思える。だが、足を止める気にはなれない。まるでこの不可解な世界を彷徨うことそのものが、何かの答えに近づく行為のように感じるからだ。
アザラ粘菌使いは周囲に手をかざし、蔦や胞子が揺らめいた。森の一角に薄暗い裂け目が生まれ、そこから奇妙な光が漏れている。
「この先に、南国植物がさらに濃密な場所がある。そこでは時間が溶け合い、過去と現在が混在していると言われる。巨人ヨルダマリはその混沌の先に、微睡むように存在するのかもしれない。」
桃ナギは一歩進む。その時、ふと問いが浮かぶ。「あなたは、この島で何をしているの?」
「私は菌と苔、粘液質の知性を通して、世界を紡いでいる。この森はただの森ではない。世界と世界のほころびをつなぎ合わせる織物なのよ。あなたが踏みしめる地面、吸い込む空気、見上げる光、すべてがほつれ合い、絡み合い、誰かの記憶と夢を通して再構築されている。」
その言葉に桃ナギは眩暈を覚える。すべてが詩的で抽象的だが、不思議と反発は感じない。むしろ、こうした曖昧な言葉が、彼女の中で眠っている何かを静かに揺さぶっている気がした。
「私は巨人を見つけて、どうしたらいいの?」
「わからないわ。討伐と公女は言ったかもしれないが、討伐とは殺すことか、触れることか、確かめることか、その意味はまだ固まっていない。あなたが巨人に触れれば、欠片は揃うのか、さらに散らばるのか……いずれにせよ、あなたは進むしかない。」
粘菌使いはふわりと揺れ、まるで彼女を誘うかのように森の奥を指し示す。そこには朽ちた木のアーチがあり、その向こうにはさらに湿度の高い密林があった。
「進む先で、クル・ルタルの旋律がまた道を変えるかもしれない。哲学の犬が別の謎を囁くかもしれない。公女はまた奇妙な命令を下すかもしれない。けれど、あなた自身が選ぶことだ、桃ナギ。」
「……ありがとう。」桃ナギは薄く微笑む。言葉は曖昧だが、彼女の中で不思議な安堵が湧く。まるでこの不可思議な森と粘菌使いの存在が、自分を恐れず受け止めているかのような感覚。
粘菌使いはコクりと頷くと、身体の胞子がふわりと散り、再び森の織物に紛れ込んで消えていく。その残像は淡い光の微粒となって、桃ナギの瞳に残った。
桃ナギは一人、木のアーチをくぐる。
森はさらに深く、どこまで行っても答えが見つからないかもしれない。けれど、問いと問いの間に滲む詩のような感覚が、彼女を足止めさせない。巨人とは何か? この島は誰の夢か? 自分は何を失ってここに来たのか?
南国の葉擦れの音、柔らかな湿気、花粉の甘い匂い、すべてが彼女を包み込む。粘菌使いが紡ぐ世界の中で、桃ナギは再び歩み出す。何も解決していないが、それでいい。混沌と詩情の狭間で、旅は続いていく――巨人への道へと近づいているのか、ただ渦を巻いているのかすらわからないまま。
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第6話 カフェマスターと内省
森を抜けると、景色はゆるやかに港町へと戻っていた。とはいえ、同じ町かどうかも怪しい。先ほどまで見かけなかった蔓草が石畳にからみつき、いつから存在したのか分からない木製の小屋が港近くに据えられている。桃ナギはそこを通り抜け、カフェへと足を運んだ。
カフェマスターの店は相変わらず南国植物に縁どられ、木漏れ日のようなランプが静かに灯っている。ドアを開けると、甘い香りが鼻孔をくすぐり、彼女は微かに安堵を覚えた。ここはまだ、あの不条理な島の中で唯一、少しだけ拠り所になりうる場所だ。
「おかえり、桃ナギさん。」
カウンターの向こうで、マスターは微笑む。白いシャツの袖をまくり、相変わらず詩行を紡ぐようにカカオをすくう。その動作を見ていると、桃ナギは不思議と心が静まる気がした。
「ココアをお願い。」彼女は短く告げる。
「もちろん。」
マスターがココアを淹れている間、桃ナギは自分がこれまで見てきた光景を反芻する。巨人を探せという公女の依頼、奇妙な楽士クル・ルタルが奏でた旋律、地下に潜む博士と意味不明な専門用語、粘菌使いが紡ぐ森の織物……どれもが曖昧で、固まらない。だが、この曖昧さの中に、ふと懐かしさのようなものを感じ始めている自分に気づく。
ココアを受け取り、スプーンでゆっくりと撹拌すると、湯気が揺らめく。その湯気を見つめていると、彼女は問いを口に出したくなった。
「マスター、この島は何なの?」
「さあね。僕も知らないんだ。」マスターは肩をすくめる。「だけど、詩を作る時と同じで、必ずしも意味や筋道が必要なわけではない。君はここでココアを飲み、森や地下を彷徨い、巨人なるものを探している。すべては不可解な詩みたいなものじゃないかな。」
「でも、私は巨人を『討伐』するように言われている。それは何を意味するの?」
「討伐が本当に『倒す』ことを意味するとは限らない。君が巨人と対峙して、触れるだけで、あるいは見つめるだけで何かが変わるのかもしれない。」マスターはココアカップを覗き込んだ。「熱いココアは、時間が経てば冷めていく。その変化は自然なことで、良いとも悪いとも言えない。巨人との遭遇もそういう類のものかもしれない。」
桃ナギは唇を結ぶ。自分は何を探してここへ来たのか。何を失ったのか。思い出せないまま、この島をさまよっている。しかし、さまよいながら、彼女は孤独を感じながらも、どこかでこの不条理な状況を受け入れはじめている。
「哲学の犬が、問いは光が漏れるほころびだと言っていた。犬の言葉も、意味があるんだかないんだか……」
マスターは小さく笑う。「犬は哲学を娯楽にしてるんだろう。ここでは不条理なものが日常を編んでいる。理屈は通じない。でも、それをただ見つめ、感じることで、君自身が浮かび上がるかもしれない。」
「私自身……」桃ナギはカップを両手で包む。自分自身が、ここで何者として存在しているのか。それは巨大な謎だ。だが、ココアの熱さが掌に伝わり、肩の力が少し抜けていくのを感じる。
「あの公女は、私が何かを失っていることを知っている気がする。粘菌使いは私の記憶を示唆し、博士は意味不明な装置をいじるばかり。巨人ヨルダマリという名を通して、私の内側を見せようとしているのかもしれないわね。」
「あるいは、君がそう感じたいだけかもしれない。」マスターは優しく言う。「けれど、感じることは大事だ。詩は意味の断片を並べて人の心を揺らす。島は詩に似てる。意味不明な符号が散乱し、君はその中を泳ぐことで、自分を少しずつ浮かび上がらせていく。」
桃ナギは微笑む。確かに、この島には明確なストーリーラインも論理もない。けれど、彼女は足を止めるわけにはいかない。混沌の中に漂い続け、やがて何かを掴むかもしれない。その「何か」は言語化できないかもしれないが、存在するはずだ。
「ありがとう。」彼女はマスターに礼を言い、ココアを飲み干す。甘くて温かい液体が喉を潤し、遠い記憶を呼び起こすかのように胸の奥で揺らめいた。
マスターはカウンターを拭きながら、ふと窓の外を見やる。「公女が港で何やら動きを見せているらしい。舞踏会でも開くつもりか、それとも奇妙な宣言でもするのか……君が行ってみるといい。」
港へ戻るか、森へ戻るか、地下へ降りるか、どこへ行ってもまともな答えはないかもしれない。だが、桃ナギは立ち上がる。内省を経て、わずかに心が軽くなった気がした。
店を出ると、外の空気は淡い青色を帯び、風が花粉を散らしている。遠くの港には、ちらちらと人影が動くのが見えた。
「行ってみるわ。」彼女は呟く。問いの答えは分からないが、問い続けること自体が、彼女の在り方を形作り始めている気がした。
カフェマスターは店内で微笑み、哲学の犬はどこかで欠伸をしているだろう。粘菌使いは森で胞子を漂わせ、クル・ルタルは奇妙な旋律を風に乗せている。
桃ナギは、詩の行間を読むように、この島を歩く。内省を得て、ほんの少しだけ、次の一歩が軽くなった。
第7話 夢のほころび
桃ナギはカフェを出た後、港の方へと足を向けた。穏やかな潮風が頬を撫でるが、その感触さえ不確かに揺らめいている気がする。港町は相変わらず寂れているが、今日は何やら奇妙な気配が漂っていた。まばらだった人影が、いつの間にか数を増している。いや、人と呼べるのかも曖昧だ。半透明な肢体をもつ者、獣耳を揺らす者、影法師のように背丈を変える者が混じり合い、ざわめき立っている。
その中心には、エフェメリカ公女がいた。空に浮かぶかのような優雅な身振りで、彼女は長衣の裾を翻す。貴婦人の礼儀作法に似ているが、そこに獣的な違和感が混じり、どこか滑稽な舞踏となっている。彼女の周囲では、意味不明な専門用語が笑い声のように飛び交い、奇天烈なキャラクターたちがねじれた調子で手を叩いている。
「公女……これは一体?」桃ナギが近づくと、公女は振り向き、透けるような微笑を向けた。
「ようこそ、桃ナギ様。今夜は舞踏会。世界のほころびを祝して、皆で狂乱を楽しむの。」
「祝す、ですって? ほころびを?」
「ええ、この島は他人の夢で織られた布。ほころびこそが、新たな光と意味不明な刺激を生むわ。巨人ヨルダマリは、その布の深層で微睡む大きな結び目。あなたが討伐すれば、あるいはほどけば、布はさらに複雑に、あるいは単純に編み直されるかもしれない。」
公女が踊るたび、空気が波打つ。港の建物が傾き、看板が逆さに吊り下がり、タイル敷きの道がぷくりと膨らむ。まるで現実が柔らかいゴムの膜でできていて、衝撃で歪んでいるようだ。桃ナギは足元が不安定になるのを感じ、ふらつきながら周囲を見回した。
笑い声が反響し、奇妙な言葉が踊る。「ゲトロジウム!」「ニュラ・ステーション!」「マニロース管が逆回転!」誰かが叫ぶたびに、町の輪郭がかすれ、建物が空に浮き上がるような幻影が見えた。まるでねじの狂った世界に踏み込んだようだ。論理も秩序も崩れ、夢の断片がさらけ出されている。
「哲学の犬はどこ?」桃ナギは混乱の中、問いかける。
すると、犬の声が頭上から降ってくる。「ここにいるよ、いや、いないかもしれない。君はどこに立っている? 質問は答えに溺れ、答えは質問に染み出す。」
見上げると、犬は屋根の上で逆立ちするようなポーズでこちらを見下ろしていた。尻尾は風になびき、尻尾の先が文字のような形を描いている。読めない文字、意味不明な記号……けれど、その奇天烈さに、不思議と桃ナギは怖さを感じない。むしろ、世界が溶け、問いと答えが混ざり合う状態は、どこか静かな受容を促している。
「公女……あなたは私に巨人を探せと言ったわね。」
「ええ、そうよ。それがあなたの任務。けれど任務はただの言葉。あなたが求めるのは、本当に巨人なの? それともあなた自身? あるいは、失われた何か?」
公女はひょいと宙を跳ね、まるで重力が半減したように身を翻す。「ここでは言葉が意味を失い、意味が言葉を喪う。私たちは他人の夢の中で踊る人形、あなたも、私も、哲学の犬も、クル・ルタルも。」
クル・ルタルの旋律が遠くから微かに響く。歪んだ和音が町を満たし、舗道に描かれた亀裂は淡い光を漏らしている。桃ナギは足元を見つめ、ひび割れの向こうに流れる奇妙な液体光を覗き込む。まるで島の下層に別の世界が重なっているかのようだ。
「ほころび……それは不安定な状態。でも、不安定さがなければ、この島はただの無味乾燥な現実かもしれない。」桃ナギは独り言のようにつぶやく。
哲学の犬が屋根からヒョイと飛び降り、彼女の足元に来る。「不安定であることは、可能性があること。巨人ヨルダマリは、可能性の塊かもしれない。君は問うてばかりだが、答えはもう目の前に散らばっているかもしれないよ。」
公女は優雅に頭を垂れ、奇天烈な客人たちは手を打ち鳴らす。舞踏会は狂乱のまま続くが、桃ナギはふと、内側で微かな変化を感じる。問いが解かれるわけではないのに、心がほんの少し柔らかくなる。まるでこの混乱自体が、彼女を別の段階へと押し上げているようだ。
「私は巨人を、いや、私自身を確かめるために先へ進むわ。」桃ナギはそう決意する。公女は笑みを深め、「あなたが求めるなら、巨人は必ずその足下にあるわ」と謎めいて答える。
クル・ルタルの音が跳ね、粘菌使いの胞子が風に舞い、博士の専門用語が闇に消える。哲学の犬は静かに笑い、小さな尻尾を揺らす。
突然、地鳴りのような低音が響く。町が再び揺れ、建物の影がぼんやりと形を変える。桃ナギは顔を上げ、遠くに微かに揺らめく巨大な影があるような気がした。巨人ヨルダマリ。それはまだ遠いが、確かに気配を持って、この世界のどこかに存在する。
舞踏会は頂点を迎え、ほころびはさらに広がる。記号と意味、夢と現実が混ざり合い、桃ナギはその渦中で静かな理解に達しつつある。答えなど存在しないかもしれない。でも、存在しない答えが彼女を導く。空中で揺れる公女の笑みは、祝福にも見えた。
桃ナギは港から離れ、再び森へと向かう。島のほころびは深まり、夢と詩が境界を失う。彼女が歩む足元で、土地は微かな調べを刻み、不可解な未来を孕み続けている。
第8話 公女の正体
狂乱の舞踏会から離れ、桃ナギは再び島の小径を辿る。道は揺らめいているかのようで、昨日と同じ場所を歩いているはずなのに、風景はどこか違う。建物はわずかに傾き、路地の角度が少し変わったように感じる。色あせた看板の文字は滲み、意味を失っていく。
朝なのか夕方なのか、時間の感覚さえ曖昧だ。光は淡く、空気は薄く甘い。桃ナギは遠くで聞こえるクル・ルタルの旋律に耳を澄ましながら歩く。その音は空のどこかで反響し、意味をなさない符号を紡ぎ出している。
ふと、路地裏の角からエフェメリカ公女がぬっと現れた。先ほどの舞踏会で騒ぎ立てていた姿とは打って変わり、今は静かな佇まい。衣の裾はきちんと畳まれ、尻尾を垂らし、頭の獣耳はぴくりとも動かない。
「公女……?」桃ナギは問いかける。
「ええ、私よ。」公女は微笑する。その笑顔は、先ほどの軽薄な狂騒からは想像できないほど落ち着いている。「先ほどは騒がしくてごめんなさいね。ほころびを祝うには、ああいった混沌が必要だった。」
「あなたは私をここへ導いているの? それとも島があなたを動かしているの?」桃ナギは問いを投げる。
「どちらでもあり、どちらでもない。私は媒介に過ぎない。」公女は頭上に片手を掲げ、そっと虚空を撫でる。「私はね、この島に潜む、あるいはこの島を形作る『他人の夢』を運ぶ存在なの。ケモノの耳や尾は、その異質さを示す記号のようなもの。私自身は、何者でもなく、いくつもの層を通して現れた仮面と言えるわ。」
「仮面……。」桃ナギは息をつく。「巨人ヨルダマリを討伐せよと命じたのも、あなたなのに。」
公女はうっすらと笑う。「そう、けれどあれは言葉の戯れ。『討伐』という言葉が、君を旅へと駆り立てた。それが重要だった。実際に巨人を殺す必要があるとは限らないわ。言葉は足掛かり、誘い水。君がこの島を巡るための装置に過ぎないの。」
桃ナギは困惑と苛立ちの入り混じった感情を覚える。「なら、私はまるであなたの手のひらで踊らされているようなものじゃない。」
「踊っているのは、君だけでなく私も。」公女は肩をすくめる。「君がいなければ、私の存在も浮かび上がらない。私もまた他人の夢の一部、巨人ヨルダマリと同じように、君が何かを探す行為で、私自身が引きずり出されている。」
遠くで哲学の犬がくしゃみをしたような気配がする。風が一瞬ざわめき、森の方向から粘菌使いの胞子が舞い上がる。クル・ルタルの旋律が微かに音程を外し、道が一寸だけ傾く。すべてが微妙なバランスで成り立った詩的空間で、桃ナギは公女の瞳を凝視する。
「あなたは何のために存在するの?」
公女は微笑んだまま答える。「私には始まりも終わりもない。名付けと忘却を繰り返すことで、何度も姿を変える。私は君が忘れた何か、あるいは君が求める何かを、比喩的に示す存在かもしれない。つまり、私は君自身の一部でもあるわ。」
桃ナギは思い出そうとする。自分は何を失い、この島に来たのか。記憶は霞み、核心には辿りつけない。それでも、何かが心の片隅で熱を帯びている気がした。
「巨人ヨルダマリは、私の忘れた記憶、あるいは心の塊なの?」
「かもしれないわね。」公女は曖昧に応じる。「この島は他人の夢だけれど、君がここにいるなら、それは君の内面ともつながっている。巨人は時間や記憶、感情が凝縮された存在。君がそれに触れることで、自分が何を求めていたか理解するかもしれない。」
桃ナギは静かに頷く。「あなたは私を騙しているわけでも、真実を語っているわけでもない。ただ、示唆的な言葉で導いているだけ……」
「その通り。私は世界に差し込まれた一枚の鏡の破片みたいなもの。」公女は踵を返し、また別の路地へと溶け込む。「さあ、君は引き続き進むしかない。巨人は眠り続けている。君がいつそこへ辿り着くかは分からないけれど、近づいていることだけは確かよ。」
遠ざかる公女の足音は、路地の先でふっと消えた。桃ナギは一人取り残され、港の淡い光に包まれる。言葉は曖昧で、結論は出ないが、彼女は一歩ずつ前に進むしかない。
島にはまだクル・ルタルの旋律、哲学の犬のパラドックス、粘菌使いの森林世界、博士の専門用語がある。どれも答えにならないが、それでいてすべてが小さな道標だ。ここは詩的で曖昧な迷宮。
桃ナギは再び歩き出す。公女が仮面であるなら、その背後にある素顔もまた、彼女自身が解き明かさなければならない。
巨人はまだ姿を見せない。けれど、街角の影、風の音、割れ目から漏れる光、そのすべてが巨人への序曲のように感じられた。彼女はゆっくりと、けれど確実に、島の更なる深みへ向かう。
第9話 巨人の目覚め
桃ナギは再び島の中心へと歩みを進めた。港も森も地下迷宮も一巡りし、謎は深まるばかり。だが、その混乱は恐怖や焦燥ではなく、不思議な期待や静かな受容へと変わりつつあった。巨人ヨルダマリという名は、島の深層に沈み込む巨大な影として彼女の意識を揺らし、その存在を感じさせる。
空は薄青く、光が行き場を失ったように宙を漂っている。街角の陰影はかすかに揺れ、建物の輪郭は溶けた蝋燭のように不明瞭だ。ここは誰かの夢の底なのか、あるいは桃ナギ自身が忘却した心象の地図なのか。
「哲学の犬、いる?」
彼女が呼びかけると、路地の瓦礫の上で犬が尻尾を揺らしていた。いつからそこにいたのか、まるで最初から待っていたような佇まいだ。
「呼べば応えるか、応えなければ呼ばれていないのと同じことさ。」犬はからかうように言う。「君はまた進むのだね?」
「ええ、なんとなく、巨人が近づいている気がする。」
犬は鼻先で空を嗅ぎ取る。「確かに、空気が重いね。まるで巨大な生き物が息を潜めているようだ。君が問い続けたから、巨人は微睡みから少しずつ目覚めはじめているのかもしれない。」
桃ナギは曖昧な恐れと期待で胸を締めつけられる。「巨人は私に何をもたらすの?」
「さあね、君が巨人を求めたのだから、巨人は君を映し出す鏡かもしれない。あるいは、他人の夢を飲み干す深い井戸。答えはないが、君の足元はすでに巨人の呼吸で柔らかくなっている。」犬は欠伸をし、首をかしげた。
そう言われると、足元の地面がかすかに膨らんでいるような気がする。桃ナギは地図もないまま、犬の視線が向く方向へ歩き出す。蔦に覆われた建物、倒れた街灯、朽ちた桟橋——いずれも微妙に歪み、音もなく揺れていた。
遠くでクル・ルタルの旋律が響く。歪な弦音が、桃ナギの心臓を撫でるように伝わり、周囲の空間をねじ曲げる。ふと視界の端に巨大な影がよぎった。ビルよりも高い輪郭が、遠い地平線の向こうに低く伏せているようなシルエット。眼を凝らすと、それが微かに動いた気がした。
「ヨルダマリ……!」
桃ナギは息を呑む。確かな形は見えないが、その質量感だけははっきりと感じられる。まるで山脈が呼吸しているかのような重さと圧迫感が、島全体を覆っている。光が乱反射し、風が弱く渦を巻き、森や港の幻影が滲む。
その時、地面がかすかな振動を帯びた。まるで遠くから響く巨大な心拍のように、一定のリズムで土地全体が上下している。建物の影はゆっくりと揺れ、斜めに切り取られた世界が一度溶けかける。
「犬、私は何をすればいいの?」桃ナギは震える声で尋ねる。
「知らないよ。」犬は静かに答える。「ただ、君はここまで来た。巨人は呼応するように目覚め始めた。それは君が求めた結果でもあり、君が逃げなかった証だ。」
クル・ルタルの旋律が高まり、粘菌使いの胞子が風に乗って飛び交う幻影が見える。博士の専門用語が記憶の底でわずかにチリチリと音を立て、公女の笑みが虹色の残像を残している。島中の断片的要素が、巨人の存在によって引き寄せられ、再配置されているかのようだ。
足元で小さな水たまりが揺らめく。そこに桃ナギは自分の顔が歪んで映っているのを見た。いつしか自分の瞳は、ほんの少し悲しみと慈しみを孕んでいるようだった。それは何かを失った者の眼差しなのか、それとも再生を求める者の眼差しか。
「巨人は近い……」犬が囁く。「その姿を知る前に、君自身が問いかけるべきだ。君は何を失い、何を求めているのか。」
桃ナギは立ち尽くしたまま、鼓動が高鳴るのを感じる。巨人ヨルダマリ――姿を確かめぬままでも、その威圧的な気配が魂を揺さぶる。もしこれが忘却した記憶の塊ならば、それに触れることで、彼女は何を取り戻すのだろう。あるいは何を喪うのだろう。
空が揺らめく中、巨人の影がもう一度動いた気がした。遠雷のような振動が地上を伝わり、建物の瓦礫がかすかに震え、南国の葉がざわつく。この世界は流動し、変容している。まるで詩の終盤に向けて、散りばめられた言葉が再配置されていくようだった。
「行くのね。」哲学の犬は軽く尾を揺らす。「僕も君と一緒に行くわけじゃない。だけど、君が巨人に手を伸ばせば、疑問も光も、その中で溶けるかもしれない。」
桃ナギは静かに頷く。声にならない決意が胸に生まれた。答えは依然として霧の中だが、彼女は前へ進むだろう。巨人は目覚めつつある。世界がほころび、夢が染み出し、詩が身を捩る中で、彼女は自身の内奥へと降りていく。
空気は重く、島はざわめいている。次の一歩が、巨人との対面へと繋がることを、桃ナギは直感で感じていた。
第10話 記憶の裂け目
桃ナギは足を踏み出した。大気は粘性を帯び、毎歩ごとに世界がゆるく歪む。巨人ヨルダマリの気配は、もはや遠くの幻でなく、足元から立ち上る霧のように、彼女の感覚を包み込む。それは生温かく、押し返せない圧をもった存在感だ。見上げれば、空の端でかすかに巨大な影が揺れている。それを視界の隅で捉えるたび、心臓が僅かに軋んだ。
路地には誰もいない。哲学の犬も、クル・ルタルも、公女も、粘菌使いも、カフェマスターも、この瞬間、姿を消したかのようだ。彼女は一人で、薄茶色く色あせた壁面や、ひび割れた舗石を通り過ぎ、どこへ続くとも知れぬ道を行く。まるで全員が舞台裏へ引き下がり、スポットライトのもとに桃ナギと巨人だけが残されたかのよう。
やがて、足元がかすかに軋む。小さな水溜まりが光をゆらめかせ、そこに映る自分の姿はやはり歪んでいる。桃ナギはしゃがみ込むと、水面に指先を触れた。その瞬間、水面が螺旋を描き、淡い光が昇る。
「――記憶の裂け目だよ。」
不意に聞き覚えのある声が背後で響く。振り返ると、ヴィスカコッポ博士が立っていた。いつの間にか現れた博士はゴーグルをずらし、何本もの管の先端が絡まった器具を手にしている。
「ゲトロジウムが足りないと思っていたが、君がここに来たことで、その代わりになるかもしれない。マニロース管、今ここで試すとしよう。」
博士は唐突に器具を水溜まりへ差し込み、奇妙な音を立てた。すると、水溜まりを中心に地面がゆらりと揺れ、世界が裂け目を生じ始める。
「ちょ、ちょっと……何をしているの?」桃ナギは動揺する。
「記憶の裂け目を広げるんだよ。君は巨人に触れたいんだろう? それには過去の深い層へと降りなければならない。君自身の内面に堆積した忘却の層を突き抜けるんだ。」
博士はにやりと笑い、器具を回転させると、銀色の液体が水溜まりの中を踊る。路地は淡い光に満たされ、建物は影絵のように揺らめく。
桃ナギは目を閉じ、胸の奥が痛むのを感じる。忘却の層……自分は何を忘れている? なぜこの島を彷徨っている?
その問いは水溜まりに溶け、螺旋を刻みながら宙へと舞い上がる。視界がぶれる中、彼女はかすかな声を聞く。幼い頃の笑い声なのか、あるいは誰かを失った泣き声なのか。断片が耳元でさざ波を立てる。
「博士、私は何を……」
「私にも分からんよ。」博士は肩をすくめる。「だが、君が巨人を求める行為そのものが、君の裂け目を開いている。詩人が白紙に言葉を刻むように、君は自分に刻まれた傷口をなぞっているんだろう。何かを思い出すかい?」
桃ナギは顔を上げる。周囲の街並みは溶け始め、柔らかな光の粒子へと変わりつつあった。気がつくと、床はもう路地ではなく、巨大な空洞の上に浮かぶ足場のようだ。薄青い光が下から立ち上り、過去とも未来とも知れぬ幻景を映す。
彼女は遠くで笑う声を聞く。誰かを呼ぶ声、名前を呼ぶ声、自分が誰かを愛した記憶……曖昧だが、確かに温かい何かがあった。失ったもの、それを思い出せずに流れ着いたこの島。巨人ヨルダマリは、その失われた何かを閉じ込めた塊なのかもしれない。
「巨人に触れれば、君はその裂け目をさらに広げることになる。」博士が言う。「もう戻れないかもしれないよ?」
「戻れる場所があったのか、私には分からないわ。」桃ナギは微笑む。奇妙な安堵を感じる。「でも、確かめたい。自分が何を求め、何を失ったのか。」
その時、クル・ルタルの旋律が遥か上空で震え、哲学の犬の笑い声がほんの一瞬だけ鳴ったような気がした。公女の耳飾りが光り、粘菌使いの胞子が空気中を漂う映像がちらつく。すべてが揺らぎ、再配置され、桃ナギは裂け目の先へと進む。
足元の足場は次第に透明になり、重力が弱まる感じがする。彼女は微かに宙へと浮いているのかもしれない。視界の端に、巨大な眼がゆっくり開くイメージが流れた。ヨルダマリ……巨人の瞳が、こちらを覗き込んでいる気がする。
「博士、ありがとう。」桃ナギはそう告げる。
博士はまた謎めいた笑みを浮かべ、「ゲトロジウムの代わりに君の決意を使わせてもらったよ」とつぶやく。すると、博士の姿は溶けて霧散し、彼女は光の中に一人浮かんだ。
裂け目は瞼の裏側で脈打ち、そこから映し出される風景は、まだ輪郭を持たない。だが、桃ナギはもう怖くない。次に踏み出す一歩は、巨人との対面へと直結するだろう。記憶の裂け目が開いた今、彼女は過去の欠片に触れる準備ができている。
静寂が広がる中、光の粒子が揺れ、世界がゆっくりと呼吸するように動いた。巨人の存在はより明確になり、桃ナギの心は柔らかくも張り詰めた期待で満たされる。記憶の裂け目――そこを超えれば、きっと何かを掴めるだろう。
第11話 巨人との対面
光の裂け目を抜けると、桃ナギは宙に浮かぶ不思議な空間へと導かれた。上下左右の感覚が失われ、彼女は淡い光彩が渦巻く湖のような次元の中に立っている。何もないはずなのに、足元はしっかりとした感触がある。見渡せば、遠くに微かだが、巨大な輪郭が横たわっているのがわかった。
巨人ヨルダマリ――その名を口に出さなくとも、桃ナギはそれが彼方にいると直感する。姿ははっきり見えない。むしろ、膨大な質量感そのものが風景になったかのようだ。静かな呼吸音にも似た振動が、この不定形の空間を満たし、桃ナギの心音と微妙に同調する。
「来たのね。」
声なき声が響いた気がする。あるいは彼女の内面に直接触れられたかのようだった。慌てて周囲を見回しても、クル・ルタルや哲学の犬、公女や博士、粘菌使いの気配はない。今回は本当に、一人で巨人と向き合わなければならないようだ。
桃ナギは巨人がいる方向へゆっくりと歩みを進める。そのたびに光が柔らかく揺れ、かすかな記憶のかけらが浮かび上がる。
誰かの名前を呼んだ記憶、手を繋いで歩いた海辺、温かい部屋で交わした言葉、あるいは音楽が流れる小さな喫茶店……そんな映像が透き通った水晶片のように現れては消えていく。
「あなたは私の記憶の塊なの?」桃ナギは静かに問いかける。
空気が微かに震え、その震えが返事代わりのようだった。何らかの意思が、彼女の内側に潜む「欠片」に触れている。忘却していたものが、少しずつほぐれていく。
かつて桃ナギは誰かを失ったのかもしれない。あるいは自分自身の一部を置き去りにしたのかもしれない。その痛みや喪失感が曖昧なまま、この島へと流れ着いたのだろう。巨人ヨルダマリは、その失われた欠片を凝縮した存在であり、他人の夢で織られた島のなかで、彼女が直面すべき最終的な象徴だ。
歩み続けると、巨人はほんの僅かに輪郭を与えられる。巨大な背中、あるいは横たわる身体が、透明な山脈のように浮かび上がる。その肌は世界そのものの織物でできているようだ。森や海、港や地下、カフェの照明や粘菌使いの胞子、クル・ルタルの旋律、哲学の犬の言葉、公女の笑み、すべてが巨人の肌に染み込み、揺らめいている。
桃ナギは trembling(震え)ながら手を伸ばす。触れれば何が起こるのか分からない。討伐という言葉は、今や意味をなさない。むしろ「触れる」こと、「確かめる」ことこそが、巨人に求める行為なのだと理解していた。
指先が巨人の表面に届くと、柔らかく、暖かな微振動が指先から腕、胸へと伝わり、頭の奥に染み込む。瞬間、記憶がざわついた。霞みかかった人影、手紙、声、誰かのぬくもり、それらがノイズ混じりの映像として一斉に蘇ろうとする。
「私は……」桃ナギは声にならない呟きを漏らす。「何を失い、何を求めて、ここへ来たの……?」
巨人は答えない。ただ、その存在感が桃ナギを包む。彼女は目を閉じる。と、まぶたの裏側で星々がきらめくように、過去の断片が流れていく。失った人、失った時間、言えなかった言葉、諦めた夢……それらが渦を巻き、彼女の感情を深く揺する。
不意に、ココアの香りが鼻先をくすぐるような錯覚を覚えた。カフェマスターの優しい声、公女の不条理な指令、哲学の犬の不可解な助言、それらはすべて彼女がこの瞬間を迎えるための詩的な布置だったのかもしれない。
桃ナギは涙が出そうなほど胸が苦しい。だが同時に、奇妙な安心感もある。失われたものは取り戻せないかもしれない。それでも、彼女はそれを抱きしめることができる。絶対的な意味や答えはなくても、その欠片を温かく受け止めることはできる。
「ありがとう……」誰に向けた言葉かは分からないが、そう呟いた。巨人は大きな呼吸をするように、空間がゆっくりと膨張し、縮む。そのリズムに合わせて、桃ナギは自分を見つめ直す。喪失は苦く、記憶は曖昧だが、彼女はここにいる。孤独とココアを愛する自分自身が、何かを取り戻した気がする。
巨人の肌に触れたまま、桃ナギは少し微笑む。討伐など必要ない。これは内なる対話だ。巨人は彼女自身の欠片、世界が織り込んだ詩の一行。触れあうことで、彼女は再生の予感をほんのわずかに感じた。
漂う光粒子の中で、桃ナギは巨人とひとつの静寂を共有する。外界の雑音は遠のき、世界は二人、いや一人(彼女と巨人は同根なのかもしれない)の呼吸に溶けていく。もはや時間も境界も意味を持たない。ただ、この静けさが、彼女の内側に小さな火をともす。
次の瞬間、世界がまた、ゆっくりと動きはじめた。
第12話 再生の港
桃ナギは巨人の肌に触れたまま、長い静寂を味わった。耳を澄ませば、時間が溶けるような音と、遠い潮騒の囁きが聞こえる気がする。それはこの島を満たす混沌が、ゆっくりと呼吸し直す音だろうか。彼女は瞼を開くと、いつの間にかそこは港の近くの道だった。
もとの世界へと戻ってきた――そう思われる。けれど、すべてが微かに違って感じられる。くすんでいた壁には僅かながら艶が戻り、倒れていた柵は起き上がるように直されている。港の水面は、前よりも柔らかな光を宿し、遠くの空には薄い虹の残滓がかかっている。
桃ナギは自分の胸に手を置く。巨人との対面、触れ合いを経て、得たものは何だったのだろう。失われた過去がはっきりと思い出せたわけではない。だが、何かが変わった。問い続けた道の果てに、彼女は「答えはなくてもいい」という受容に辿り着いたのかもしれない。欠片は欠片のまま、喪失は喪失のまま、しかしそれを抱えた自分自身は、確かにここにいる。
ふと、哲学の犬が路地の角でこちらを見ていた。桃ナギが近づくと、犬はくしゃみを一つして、「問いは答えに溶け、答えは問いに染まる」と、いつもの不可解な言葉をつぶやく。けれど、今の彼女には、その言葉が妙にしっくりと感じられた。理屈ではなく、感覚として。
「あなたはずっと見ていたの?」
犬は尾を振らず、「もともと僕はいるのかいないのか分からない存在だ」と言いたげに首をかしげる。桃ナギは微笑む。もう、その曖昧さにも戸惑わない。
カフェへ向かうと、マスターが静かにグラスを磨いている。南国植物の影が店内に優しい模様を描き、淡い音楽が流れている。彼女はカウンターに腰掛け、「ココアをお願い」と言う。
マスターは穏やかに頷き、一杯のココアを差し出す。その香りが胸にしみ込むようだ。
「巨人には会えたかい?」マスターは尋ねる。
「ええ、会ったわ。」桃ナギはカップを両手で包む。「討伐なんて必要なかった。巨人はただ、私の中にある欠片を映し出す鏡みたいなものだった。でも、すべてを理解する必要はないって思えたわ。」
マスターは「それが一つの答えだ」と言わんばかりに微笑む。「詩を書くときも同じさ。完成された意味なんて求めず、ただ言葉と向き合い、空白を受け入れる。君はこの島の不条理な詩の中を歩き、最終的に自分なりの調和を得たんだろう。」
桃ナギはココアを啜る。甘さと苦みが舌の上で溶け合い、喉を通る頃には、昨日までの混乱が遠くなっている。戻るべき場所があるのか、行くべき場所があるのか分からないが、ここで一息つくことは許されている気がした。
店を出ると、港は穏やかな水面を見せていた。波止場には誰もいない。公女も、粘菌使いも、クル・ルタルも、博士も、今はどこか別の場所で静かに存在しているのだろう。それでいて、この世界の空気には、彼らの気配が薄く溶け込んでいる。彼らが巻き起こした不条理な風景は、桃ナギの記憶に柔らかな染みを残している。
桃ナギは旅立つべきか、それともこの島に留まるべきか、考えてみる。答えは出ない。けれど、どちらでもいい、と思える。巨人ヨルダマリとの邂逅を経て、彼女は絶対的な正解よりも「揺らぎの中で生きる」強さを手に入れたような気がした。
港の裏手には、以前彼女が降りた地下へのハッチがあるかもしれない。森へ行けばまた粘菌使いに会えるかもしれない。クル・ルタルは音を鳴らし続けているかもしれないし、哲学の犬は適当なところで鼻を鳴らしているだろう。
いずれも確かでなく、夢のように儚い存在。でも、それでいい。
「さあ、私はどこへ行こうかしら。」桃ナギは小さくつぶやく。孤独とココアを愛する自分がここにいることを感じながら、ほころびだらけの世界を見渡す。そのほころびの一つ一つが、光を透かし、詩の余白を作っている。
再生か解放か、本当のところは分からない。ただ、巨大な謎を前にひるまず、問いを抱え続けた。結果として、彼女は自分が空白に耐えられる器になった気がする。それはこの不思議な島と、その住人たち、巨人ヨルダマリがくれた贈り物だったのかもしれない。
波止場で、彼女は海を見つめる。曖昧な日差しが波紋を揺らし、遠くで鳥が啼く。行くあてもないが、どこへでも行ける気がした。何度目かの呼吸を整え、桃ナギは静かに歩き出す。島は今日も、不確かな夢と詩を孕んで、いつまでもゆらゆらと揺れている。
あとがき
簡単に私感を述べると、非常に精度が上がったと感じました。
制作手法としては、最初にChatGPT o1といくらかの対話をして、指定を与え、構成・プロットを書いてもらい、その後、一章ごとに執筆に入ってもらっています。構成・プロットを書いた後、途中での変更や追加の指定はなし。
できあがった本文について私が手を入れた箇所は2箇所だけです。
本編の文字数は約2.8万字。
登場人物の画像生成はmidjourney。人物設定部分のプロンプト指定はChatGPTに任せています。絵柄・雰囲気は私が指定。
一日の内の数時間でこれだけの作品ができてしまいます。驚きではあります。が、現時点で、AI画像/動画/音楽に比してAI小説というのに需要のある感じはしないですね。ですのであくまで趣味の範囲であり、現実的な用途としては、漫画・映画やゲームなどの原作に使うといった用途が考えられると思います。
個人的にはまだ趣味・実験の範囲であり、そういった作品への制作に用いるのは実際に用いるとしてまだ先になると思います。
※本作はChatGPT4 o1を使用した作品です。
自身の手で執筆した最新の短編小説はこちら。