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『SO LONG GOODBYE』を観て。

 役者 (渡辺綾子) が一人だけ舞台に上がる。
 観客の視線と期待を一身に背負いながら、唐突にそっと話し始める。
「私の名前は渡辺綾子で……」

 原案は、スタッズ・ターケル著『仕事!』であり、私の仕事について、さまざまな職業の人にインタビューを行った河井朗が演出を手がけている。
 真っさらと言っていいほどのシンプルな舞台演出だが、最初から観客を戸惑わせることがある。すでに、舞台の中央に真空パックされたバナナが一本だけ、上からワイヤーで吊るされているのだから。

 舞台の上には最初から最後まで、たった一人の役者しかいない。

 約四十分の公演時間。言ってみれば、途方もない長台詞で構成されている。だが、飽きることはない。役者の言葉にぐいぐいと引き込まれていく。それは一つ一つの言葉が消費されていくだけの長台詞の一部分としてではなく、その言葉が生まれた背景ごと熱を帯びて (時には冷めたまま) 伝わってくるからではないだろうか。それを観客に伝えることが役者の仕事だと一括りにするのではなく、彼女 (渡辺綾子) だからこそ表現することが出来ていると私は思った。
 そして、いつしか気付かされている。どこからどこまでが渡辺綾子なのだろうかと。目の前の舞台に立っている渡辺綾子は渡辺綾子であり、すでに渡辺綾子ではないのかもしれない。

 私は舞台から聴こえる声に耳を傾け、舞台上での行動に釘付けになる。変わることのない一定の無機質とでも言うべき機械音が聴こえる。次々に真空パックされたバナナが収穫されていく。一人で多くのバナナを抱えきれないのであれば台車を使えばいいと言わんばかりに。一つずつワイヤーに取り付けられると、バナナは落ちることなく静かにぶら下がっている。簡単そうに見える一連の作業は、どこか緊張感が漂っている。本番の舞台でワイヤーが外れてバナナが落下することはとても危険だ。本番は一度きり。失敗など許されない。能動的にぶら下がっているのではなく受動的に吊るされているだけ。一つだけだったバナナに仲間が増えていく。

 舞台上で「渡辺綾子」らしき人物が語り続けている。観客である私と「渡辺綾子」らしき人物は、どこが似ていて何が違うだろうか。私は (私のことなど誰も知りたくないかもしれないけど) 人見知りであり、大勢の観客の注目を浴びながら話し始めることが出来ない。渡辺綾子は違う。たった一人だろうが、唐突にそっと話し始めることが出来る。舞台上を歩くことが出来る。ここで想像をしてみる。実は、渡辺綾子も人見知りかもしれない。それを乗り越えて舞台に上がっているのかもしれない。それとも、あっけらかんとした性格の持ち主で飄々と舞台に上がっているのかもしれない。想像することしか出来ない。なぜなら、私は渡辺綾子を直接知らないから。渡辺綾子がどんな環境で育ち、普段どういう生活をしているのか私は知らない。と思ったところで、少しだけ、渡辺綾子について知っていることを思い出した。「私の名前は渡辺綾子で……」に続く言葉たち、自己紹介を最初に聞いているではないか。本質となる共通項を探す。

 思考を張り巡らす行為をさせること自体が、ルサンチカを主宰する河井朗の演出であり、彼の真骨頂なのだろう。ルサンチカのホームページには、「作品制作において最も注力するのは、現代に存在するモラルと当事者たちの言葉を受けて、そこにあった真実と事実を舞台上にあげることによって観客との対話をどのように行うことができるかを図る」と書かれてある。だから、私は『SO LONG GOODBYE』を観た。河井朗の演出と対話する為に。

 人生は一度きり。私はこの世界にたった一人しかいない。

 途方もない人生で消費されるだけの生活を送りたくはない。失敗や批判されることを恐れずに、挑戦し続けたい。もちろん、一人だけでは生きていけない。多くの人に支えてもらいながら刺激を受けて、私は腐ることなく私の人生を実らせていく。人生に正解などないように、この作品にも明確な答えはないのかもしれない。正確に表現すれば、答えはバナナの個数と同じように無数に存在するだろう。見終えた後、私の頭の中には思考の種が蒔かれていた。しっかり育てるから、果物が実ったら一緒に食べてくれませんか。それまで、バイバイまたね。


 最後に、本作のドラマトゥルクである田中愛美さんが書かれた稽古日誌、SO LONG GOODBYE 1~17 を大変参考にさせていただきました。初めての劇評を書くことが出来ました。感謝を述べたいです。ありがとう。

ルサンチカのホームページ https://www.ressenchka.com/


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